自分の能力をベラベラ喋るのと、ナレーションが全部喋っちゃうのどっちがいいか

どっちがいいんだろうね。

この前、面白い物を見た。
『BLEACH』の久保帯人先生が自身のファンクラブ内で、ファンからの質問に一問一答形式で答えているのだが、その一部が順次公開されていて、その中で特に目を引くものがあった。

おおまかに言うと、「BLEACHでナレーションが少ないのはなぜですか?」という問いに「没入感が薄れるから」と返している話。

BLEACHにナレーションが少ないのも、そのほうが物語に集中できるというのも確かに納得の話である。

逆にナレーションがメチャクチャ多いのは山口貴由先生の『シグルイ』であり、この作品の影響はとんでもなくデカイと思っている。

例えば『鬼滅の刃』の吾峠呼世晴先生も、熱狂的なシグルイフォロワーの一人である。
シグルイの作中に出てくる『流れ』という技術に近いことを音柱もやっているし、読み切り作品の『過狩り狩り』の主人公が隻腕かつ隻眼というのもシグルイに似ている。

鬼滅の刃で思い出されるのが、無限列車編にて炭治郎の美しすぎる内面世界に触れた子が攻撃を止めるというシーンがあり、漫画ではナレーションで説明されていた部分なのだが、映画版では没入感を削ぐと思われたのか、子供本人がベラベラと感動して止めたみたいなことを言っていた。漫画を先に読んでいた印象もあるのだろうが、こっちのほうがなんだか没入感が薄れた気がする。「あなたを○そうとしていたけどやめました」を相手に直接言うのがキツイと感じた原因だろう。

シグルイの影響を受けた作品といえば他にもある。
冨樫義博先生の『HUNTER×HUNTER』もキメラアント編からナレーションがメチャクチャ多い。

ネテロVSピトーの『つまり真相は 不可避の 速攻である』はシグルイみを感じたし、クロロVSヒソカも、シグルイの岩本虎眼からインスピレーションを受けていたらしい(単行本のあとがきにそう書いてあった)。

そしてBLEACHとハンターハンターの両方に影響を受けている、芥見下々先生の『呪術廻戦』は明らかにナレーションが多めで、『瞬間 東堂の脳内に溢れ出した 存在しない記憶』などはミーム化してしまうほどのインパクトがあった。

呪術廻戦といえばナレーションが多いだけでなく、自分の能力をベラベラ喋ることに『術式開示』と意味付けを行った作品としても有名だ。
これはハンターハンターの『制約と誓約』、特にゲンスルーの能力に影響を受けているように見えるが、『命の音』はたまたま能力を喋るのがスイッチになっているだけで、他にも相手に触りながらキーワードを言うとか、仲間を含めた三人で発動するジョイント型の能力であるとかが特徴である。なのであくまで「相手に能力をばらす」というのは一部の能力の特殊な条件のひとつでしかなく、『術式開示』はそこらへんを改めて一般化し、作品に盛り込んだ所が重要だ。
術式開示の場合は、自分の能力を相手に理解されてしまうが、その分だけ威力が上がるというハイリスクハイリターンの諸刃の剣であり、呪術廻戦の前半は特に『術式開示』の駆け引きを丁寧にやっていた印象だ。

最初の問いに戻るが、ナレーションが説明するのと、自分で喋っちゃうのと、どちらがいいかは、わからない。
ナレーション過多なのにそこも含めて読み込んでしまう名作もあるし、徹底して天の声を排除した、主人公のためだけの物語もある。両方を盛り込んで成功した作品もあるので、どちらにせよ、そもそもどちらも「演出のひとつ」なのだ。
逆に「説明してもらわないとわかるわけがない」ものも結構あるので、そこのご都合主義的な部分も必要だし、「なんだか後出しで説明してくるな」とひっかかることもある。むじぃ~(ケビンス・山口コンボイの言葉)。


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