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革命前夜

前章


・概略

パーネル没後30年経った頃、1891年 アイルランドを自由国とすることが認められる。
この近辺、イギリスの融和政策により、アイルランド人の多くはイギリスの制度を受け入れ、英語を国語とすることに然程の抵抗もなく、徐々に緩和されていく締め付けに将来への展望を見出していた。

それなのに、1921年にはイギリスとはっきり決別し、新しい独立国家の建設を目指していくこととなる。
それはなぜなのか、紐解いていこうと思う。


・アイリッシュ・ルネッサンス!

パーネル亡き後の30年、カトリックアイリッシュたちは政治的影響力を失い、文芸復興に希望を見出そうとする。

泥臭く辛気臭い現実ではなく、高尚な文化芸術世界に救いを見出そうとしたわけだが、そこで、ケルト民族の伝説的英雄クーハラン(クー・フー・リン)が、名誉を重んじ、死を恐れない偉大な人物として復刻され、アイルランドを現在の苦境から救い出せるのは、かの英雄のように、高貴な魂を持ち、祖国の為に死ねる人物だけだというメッセージが、アイルランド国民の中に美しくも強烈なアピールとなって浸透して行く。


瀕死のクーハラン

クーハラン(クー・フー・リン)は古代の英雄で、様々な武勇を打ち立てる。
怨みを募らせた隣国の魔女にして女王が差し向けた大軍に立ち向かおうとしたとき、妻のエミールに止められるが「 名声は死後にも 残るが、不名誉 な生命は無意味である。 もしいま祖国の危機を救わなければ、末代まで汚名 を着ることになろう」と言い残して出撃する。(武士道!!!)

結果、武勇によって大軍を蹴散らしたものの、敵の魔法の毒槍を脇腹に受け、瀕死となってしまう。
敵の前で倒れ伏すのをよしとせず、泉で血を洗い清め、石柱に自身を縛り付け、敵の方を睨み付けたまま動かなくなった。
敵は彼を恐れて暫く近寄らなかったが、一羽の烏が彼の肩に舞い降りて止まったのを見て、死んでいると悟り、敵将が首を取ろうと近寄っていった。
そのとき、死んでいると思われたクーハランの剣が一閃して、敵の首を刎ね、勝利をもたらしたという。

彼を模した彫像は、アイルランド共和国独立のシンボルとなっており、独立運動の際に総司令部となった中央郵便局の構内に現在も飾られている。

当時は『国民国家』という概念が確立してきていた時代だったから、民族独自の文化や言語があるかどうかが目安となってもいたし、世界社会に独立を訴える大義名分となり得たんだ。


・シン・フェイン党とIRB

こういった文化芸術面の復興によって誇りを取り戻したカトリックアイリッシュ勢力はナショナリズムに目覚め、20世紀初頭、再び政治的活動に積極的になる。

シン・フェイン党(Sinn Fein われわれ自身でという意味。シン・ゴジラとかの先駆けではない)は、イギリス王室を名目上元首として認めても良いという姿勢の穏健派だ。

一方、IRB(Irish Republican Brotherhood アイルランド共和主義同盟)はアイルランド独立という目的の為には、武力行使も辞さないという強硬派だった。

しかし、どちらもカトリックアイリッシュを思う気持ちは共通していた為、相互に友好的団体という認識があって、人脈も繋がっていた。

当時 IRB は『 アイルランド 人 の 自由( アイリッシュ・フリーダム)』 という 機関誌を発行して、イギリスからの分離を訴えており、それが後に独立の契機となる『イースターの蜂起』で主役を演じる人物たちを惹きつけていく。
IRB設立当初のメンバーで、イギリス当局に目を付けられていた為、アメリカに亡命していたトム・クラークも偽名を用いて帰国し、ダブリンのパーネル・ストリートの角に小さな売店を開いた。ここがIRBの活動拠点となる。

トム・クラーク




・後の北アイルランド、アルスターでは

アイルランドの中でも、プロテスタントアイリッシュが多く占める北東部のアルスターでは、プロテスタントアイリッシュたちは今や小作人たちに所有地を強制的に譲渡させられて、不在地主という特権的立場を失っていたが、それでもアイルランドの独立分離には反対だった。矢張り、決定的にイギリスの庇護を失ってしまうというのは不安だったのだろう。
そこでエドワード・カーソン男爵を指導者とする、既得権とイギリスとの一体化を維持する為の『アルスター義勇兵軍』が生まれた。


・革命前夜

だが、農村部に比べて都市部での貧困層の生活は悲惨で、IRBの一員であるパトリック・ピアスはこう報じている。
「私の見るところ、ダブリン市民の三分の一は空腹で、小学生の半分は栄養不良に陥っている。(中略)冬の寒い日でも、何万人もの人が暖炉に火の気のない生活をしている」

折しも、マルクスが唱える共産主義が知れ渡ってきた頃だった為、社会主義革命の発祥の地となるのはアイルランドだろうと目されてすらいたという。

1913年、労働者階級の生活改善を求めて結成された労働組合が、使用者側と対立するが、使用者側が労働者を締め出す対応を取った為、ダブリン市内はデモ・暴動・警察の動員で多くの死傷者を出し、不穏な空気に包まれることとなる。


・世界情勢を踏まえて

当時、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟と、イギリス・フランス・ロシアが形成した三国協商の利害の対立から、戦雲が漲り始めていた。第一次世界大戦の予兆だな。

アイルランドのナショナリストたちは、イギリスが大陸での戦争に巻き込まれるときこそ、宿願成就のときだろうと考えていた。

それを察してか、イギリスではアイルランドの自治問題が最大の政治課題となっていた。別個の議会を持つ自治国にしようという法案で妥協させようとするが、アルスター義勇軍がそれに反対し、それに対抗してアイルランド義勇軍が結成されるという始末で、アイルランドで内紛が起こりかねない様相となって来た為、停滞することとなった。


・1914年7月28日、第一次世界大戦勃発

ついに戦争が始まってしまうと、イギリス政府はアイルランドの自治問題は当分の間凍結という形を取る。
この決定に際して、アイルランド義勇軍は賛成派と反対派に分裂し、イギリス政府に従順な小数派は「国民義勇軍」として離脱することとなる。
アイルランド義勇軍の主要なポストはIRBに占められており、武装蜂起の準備を整えていた。
ダブリンの労働者を守る為の自警団である市民軍(200人)もこれに呼応して立つ手筈が整っていた。この組織の指導者は、軍人の経験のあるジェームズ・コノリーであり、反乱最初に英国人を殺害し、そして殺された人物でもある。

ジェームズ・コノリー

義勇軍の人数は20万人と多かったが、如何せん、決定的に武器や装備品が欠乏していた。武器はライフル1500挺しかなく、弾丸は一挺につき僅か25発分しかない。戦争勃発後、急遽6000挺を調達したといった有様だ。

イギリス陸軍省はそんなことはつゆ知らず、アイルランド義勇軍を通常のイギリス軍に組み込み、二個師団を編成する考えだった。

一方、プロテスタントアイリッシュであるアルスター義勇軍は、自治問題を棚上げにして貰えたことに安堵して、3万5千人の兵士を政府に提供することとなった。

一般のアイルランド人はといえば、主に経済的理由から志願兵として懲役に応じることとなる。

アメリカでは、アイルランドの独立運動を支援していた秘密結社クラン・ナ・ゲールがドイツと接触し、武器弾薬の調達の手筈を整えていた。

・アイルランド自治論者の減少

そして着々と準備を進める中、戦争から一年と半年ほど経つが、アイルランド人の間にはイギリスとの連合は必ずしも悪くないと考える人々が増えてきていた。
シン・フェーン党やゲール語連盟は活動停止状態になり、ジェームズ・コノリーも長期の労使紛争で疲れ果て、組員も半減して挫折感を味わっていた。
それにもかかわらず、1916年初頭、いよいよ武装蜂起の実行が計画された。反戦運動の盛り上げに失敗した指導者たちの失意の中から生まれた動きといえる。

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