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脳構造マクロモデルで読み解く人間の行動選択#9『モラル・トライブス』(2)

道徳的ジレンマのトロッコ問題を解く被験者の脳を、fMRIを使ってスキャンする共同研究で、心理学に留まらない知のフロントに躍り出たアメリカの気鋭の心理学者ジョシュア・グリーン。彼の2013年の著書『モラル・トライブス』読解の第2回は、第1回で詳細に読解した道徳脳の二重過程理論を基に、サブタイトル「共存の道徳哲学へ」に表されている、脳の「マニュアルモード」を適切に利用して「深遠な実用主義」としての「功利主義」に至るグリーンの論考にダイブしてみよう。

<シリーズ3> ジョシュア・グリーン
モラル・トライブス(2)
二重過程脳が導く「深淵な実用主義」

『モラル・トライブス』はそのタイトルとサブタイトル「共存の道徳哲学へ」が示すように、従来の「部族主義的な」(仲間内の集団の価値観を優先してしまう)道徳的判断だけでは解決が難しい、現代における主義主張や価値観の対立、即ち、グリーンの言う「常識的道徳の悲劇」を乗り越えるための方法論を探っていく知的探索の書である。

本稿では、グリーンの論考の構造と骨子を簡単に紹介する。哲学的に、問いを立て、問いに対する論考を緻密に重ねて、心理学に留まらず脳神経科学の最新の成果や社会実験など様々な分野の研究事例を引用しながら、あるべき姿をじっくりと論理的に導いていくグリーンの論考の詳細や機微は、是非、書を手に取って直接触れていただきたい。

ただし、本稿のポイントは、グリーンの主張の詳細な解説ではない。グリーンの本著での論考の核が、脳神経科学の大家J.コーエンらと構築した「道徳脳は二重過程(デュアルプロセス)である」ことが前提となっている点に、本シリーズ第1回に引き続き着目し、グリーンの論考の紹介を通じて、脳の情報処理が二重過程であるとはどういうことか?についての理解を更に深めていくことが本稿の主題である。
本稿の最後では、本シリーズの核である、国際的な認知学会に認められている、豊田・北島の脳構造マクロモデルMHP/RT(Model Human Processor with RealTime constraints)を援用した解説を添えたい。

二重過程の道徳脳の2つの機能
~オートモードとマニュアルモード~

グリーンは、道徳脳の二重過程の2つの機能をカメラに例えて、「オートモード」と「マニュアルモード」と表現している。「オートモード」と「マニュアルモード」とはどのような考え方なのか。

これまで本シリーズで用いた表現を適用すると、グリーンのいう脳の「オートモード」は、直観や情動(による判断を含む)、「マニュアルモード」は理性や論理的思考と置き換えていただいてよい。その上で、グリーン自身の表現と説明を観てみよう。

グリーンは、道徳脳のオートモードとマニュアルモードが持つ機能について、まず、カメラに基づく対比と同様、脳のオートモードは自動的で便利で効率性が高く、脳のマニュアルモードは柔軟性が高いとし、2つの対比に効率性柔軟性という特質を示している。

「オートモードとマニュアルモードの両方を備えたカメラは、いたるところで見られる設計問題、すなわち効率性と柔軟性のトレードオフに対する鮮やかな解答例である。オートモードは非常に効率的だが、柔軟性にいまひとつ欠ける。マニュアルモードはその逆だ。しかし、両方を備えていれば、それぞれのよいところを利用できる。ただし、手動で調節したほうがいいのはどんなときで、全自動がいいのはいつかを、心得ていればの話だ
(第5章, p.174、太字は本稿筆者)

上記の引用で留意するべきポイントは、二重過程機構として効率性と柔軟性が両方あるからよい、という部分よりも、どのような時にどちらを使えばよいのかを心得ていることが重要という後半の注釈の部分である。この点は『モラル・トライブス』におけるグリーンの今後の理想を巡る哲学的な論考を理解する上で重要なポイントとなる。「マニュアルモード」をどのようなときにどのように使えば、なぜ常識的な悲劇を解決できるのか、という問いが論考のスタート地点になる。

脳の2つの機構の別の側面の特性として、グリーンは、ノーベル経済学者で行動経済学の創始者として知られるダニエル・カーネマンの『速い思考、遅い思考』(邦題『ファスト&スロー』)という表現を援用している。『モラル・トライブス』で道徳脳の二重過程機構にたどり着く論考と仕組みの説明をしている第二部(第4章+第5章)のタイトルは「速い道徳、遅い道徳」である。

グリーンは、オートモードとマニュアルモードの速度の違いについて、『モラル・トライブス』の中ではあまり多くの事例を詳解していないが、本稿第1回でも紹介した、時間制約を取り払い、時間を掛ける熟考により、認知制御、すなわち脳の「マニュアルモード」を作動させることが必要な判断(功利主義的判断)ができるようになる傾向がある研究事例などを第5章で取り上げている。つまり、「オートモード」は速く、「マニュアルモード」は遅い

纏めると、マニュアルモード(理性/論理的思考)は、ゆっくり作動するが(ゆえに)、自動的で速い情動・認知を制御できる(場合がある)。即ち、効率性が重点に置かれる自動的で速いオートモードのアウトプットを、柔軟性を持って、後から制御(変更・更新)できるメカニズムをマニュアルモードは持っている。ただし、適切に利用できれば、という注釈を添えることを忘れてはいけない。

「オートモード」の効用と限界, 
「マニュアルモード」が導く道徳の「共通通貨」

「オートモード」と「マニュアルモード」の特質と違いについてのグリーンの概念は、概要を理解いただけたと思う。では、次に『モラルトライブス』上巻の内容を大掴みにしてみよう。

・適応的に進化してきた道徳脳は道徳マシーンとして、<私>と<私たち>の矛盾、即ち、利己主義と利他主義の対立を解決する能力を経験的に備える。この道徳マシーンの能力は道徳脳の「オートモード」の働きである。

・一方、グリーンが「常識的道徳の悲劇」と称する、現代の複数の利害関係者が対立する問題、「部族」間で対立する価値観の問題、<私たち>と<彼ら>の間の問題は、「オートモード」だけでは解決できない。逆に、「オートモード」が解決を難しくしてしまう側面すらある

・道徳脳は二重過程(デュアルプロセスの情報処理機構)になっており、「オートモード」だけでは解決できない「常識的道徳の悲劇」を解決するために道徳脳の「マニュアルモード」がある

・道徳脳の「マニュアルモード」を意図的に適切に活用し、「常識的道徳の悲劇」を解決するこれからの「共通通貨」になりえる、「深淵なる実用主義」の具体的実践に耐えうる唯一解として「功利主義」を再定義し、活用してみよう。

上記のグリーンの主張の構成は、ざっとご理解いただけただろうか。現時点での理解の参考に、簡単に上記について本稿筆者の図解を示しておく。

悲劇対比イメージ

『モラル・トライブス』の主題となっているメタファー「オートモード」では解決できない「常識的道徳の悲劇」とはどのようなものなのだろうか。なぜ「オートモード」では解決に至れないのかと合わせて、紐解いていこう。

常識的道徳の悲劇~新しい牧草地を巡る部族間の争い

グリーンが『モラル・トライブス』に通底する課題として描いている「常識的道徳の悲劇」とは、環境学者ガレット・ハーディンが1968年に発表した「コモンズ(共有地)の悲劇」を下敷きにした、次のような4つの部族による新しい牧草地を巡る争いに例えたメタファーである。

4つの部族にはそれぞれ特徴がある。共有の牧草地でどの家もすべて同じ数の羊を管理する東の部族、共有の牧草地で管理するが羊の数は家族の数で決まる西の部族、共有の牧草地はなく牧草地は個人所有で土地にもバラつきがあり個人の勤勉さや才覚で土地の買収による拡大もできるし、自身は勤勉でもないが相続で肥沃な土地を持つ北の部族、牧草地だけでなく羊も共有する南の部族である(「東西南北」には地勢的メタファーの意味はない)。

どの部族が最も幸せとは一概にいえないが、東西南北4つに分けられた牧草地に暮らす部族はそれぞれの価値観や慣習に従って、穏やかにそれぞれに彼らなりの幸せを感じて暮らしていた。

しかし、火事を契機に新たに出現した牧草地を巡って、争いが勃発してしまう。南の部族は新しい牧草地は全ての部族で共同管理しようと、調停の仕組みも提案した。北の部族はこれをあざ笑い、家を建て壁を築き羊を放った。東西の部族も程度の差こそあれ、北の部族と同じことをした。ある諍いで暴力が発生すると、その応酬がまた暴力を呼び、暴力的復讐の連鎖が常態化し、新たな牧草地を巡って、血で血を争う戦闘が繰り返されるようになってしまう。

各部族が各部族の牧草地だけで暮らしていたときは、それぞれに違いはあれど、各部族は各部族の中で平和に穏やかな営みが続いていた。しかし、新しい牧草地が生まれたが為に、各部族の持つ価値観の違いが火種となり、終わりのない血みどろの争いの泥沼にはまり込んでいってしまった。

この新たな牧草地がもたらす部族間の争いがグリーンのいう「常識的道徳の悲劇」である。

「常識的道徳の悲劇」は、これまでの部族内で経験的に根付いている道徳的価値観だけでは治めきれない、価値観の対立する共通課題を巡る現代の道徳的問題の象徴である。残念ながら「常識的道徳の悲劇」は各部族が固有荷物経験的な道徳的価値観だけでは解消できない

その理由は、「部族主義」と「バイアスの掛かった公正」にある、とグリーンは説明する。

部族主義とは、これまでの本シリーズでも観てきた、ヒトが進化の過程、自然適応の過程で獲得してきた、人類が集団種であることを表す考え方のグリーン流の表現である。

「私たちはみな、同心円状に広がる複数の社会的な円の中心にいる。私たちをまず囲んでいるのが、もっとも近い血縁者や友人たちであり、それをもっと遠い親戚や知人たちが取り囲む。知人や親戚の円の外側にいるのが、種類や規模も様々な集団(村、氏族、部族、民族集団。ご近所、末、州、地方、国。教会、宗派、宗教など)。(中略)社会的空間は複雑で多様な次元から成るが、常識と膨大な社会科学調査の両方から少なくともひとつのことがあきらかだ。人間は、自分を中心とする社会的宇宙の中で、人がどこに位置するかにきわめて鋭い注意を向け、自分たちにより近い人をひいきする傾向がある。ときに偏狭な利他主義ともいわれるこの傾向を、部族主義と呼ぼう」(第2章, p.65-66、太字は本稿筆者)

部族主義は、<私>より<私たち>を優先させうる働きをするが、一方で<彼ら>より<私たち>を優先させることにもなる。これを称してグリーンは上記のように「部族主義」を「偏狭な利他主義」と揶揄している。即ち、部族主義は、集団内では利己的な人を協力関係を行うよう利他的指向に導くが、集団レベルでみれば、属する集団を利己的な性質に導くことになる。

グリーンは部族主義に加えて、「常識的な道徳の悲劇」を解決困難にする要因として、「純粋な」価値観の違い、協力の適切な条件の差異により、人が自分の属する集団の道徳的価値観を他の道徳的価値観より支持する現象を挙げ、これを「バイアスの掛かった公正」と称する。

「バイアスの掛かった公正」の事例として、本シリーズの最初のシリーズに取り上げたジョゼフ・ヘンリックらの比較文化研究の例を挙げている。ヘンリックらは、アフリカ、南米、インドネシア、パプアニューギニアなど世界中の小規模な社会を調査しているチームと協力し、3種類の経済ゲームをやった結果を世界各地で比較したところ、協力において相手に何を期待し、何を期待すべきでないかが、地域によって大きく異なることを明らかにしている。つまり、協力の前提となる条件についても、集団としての道徳的価値観は、地域・環境に拠って大きく異なる、ということだ。

こうした部族主義、部族毎の価値観への固執と部族間の価値観の相違からもたらさせる公正に対する相違、グリーンのいうバイアスの掛かった公正により、新たな牧草地の悲劇は産み出され、繰り返され、既存の各集団ごとの常識的な道徳的価値観では解決が難しい状況となる。即ち、「常識的道徳の悲劇」と化す。

この悲劇はどのように解決しえるのか。グリーンは道徳脳がデュアルプロセス(二重過程)であることを基にして、脳の「マニュアルモード」の働きにその可能性を託す。即ち、既存の道徳的価値観に基づき情動に支配され常識的道徳の悲劇を生み出してしまう人間の道徳脳の機能「オートモード」に対して、認知と情動を制御しうるゆっくりと論理的思考が遅く働く機能「マニュアルモード」を適切に利用しようと提案する。

グリーンが希望を託す脳の「マニュアルモード」は、「オートモード」を補う形で利用可能なのだろうか。この問いを探求する前段として、まず「オートモード」とはどのようなものかをもう少し探ってみよう。

道徳マシン~自動的な「オートモード」

本稿の前シリーズで紹介したジョナサン・ハイトと同様、グリーンも、道徳は、個人の利益と個人が属する集団の利益の間の争い、利己主義と利他主義の争い、<私>と<私たち>の争いを解決、回避するために、進化的に適応した心理メカニズムとして発達してきた、と捉えている。ハイトの『社会はなぜ左と右に分かれるのか(The Righteous Mind)』をポジティブに紹介する文章をわざわざ付け足した上で、グリーンは次のように述べている。

「単細胞から人間のような超社会的生物まで、地球上の生命の物語は、しだいに複雑さを増していく協力の物語といえる。協力があればこそ、私たちは今ここにいるわけだが、同時に、協力の維持は最大の試練でもある。道徳はこの試練に対して人間の脳が出した回答なのだ。(この考えをいきいきと広範に論じているのがジョナサン・ハイトの『The Righteous Mind』(邦題『社会はなぜ左と右に分かれるのか』)だ)(第2章道徳マシン, p.78-79、太字は本稿筆者)

道徳脳の二重過程の片方の機能は、効率性や速さという特徴だけではなく、協力を生み出し利他主義を誘導する能力も進化的適応として獲得してきた。

この機能は自動的に処理を行う性質も併せ持つので、「オートモード」という表現をグリーンは用いている。更に、前回でも見てきた通り、情動とも密接にかかわっている。自動的なオートモードは、情動と深く結びつきながら、<私>と<私たち>の問題を解決に導く。情動と「オートモード」の結びつきについて、グリーンは「情動のオートモード」という表現すら使っている(p.185-186)。脳の二重機構を解説している第5章での、グリーンの「オートモード」についての解説を引用する。

人間の行動を研究する科学分野は例外なく、独自の方法で情動と論理的思考を区別している。(中略)
 情動は、その機能、起源、神経基盤のどれをとっても、じつに幅広い。(中略)
 情動は機構のレベルではなく、機能のレベルで統合されている。
(中略)
情動は、自動的なプロセスであり、行動の効率性を上げるための装置なのだ。情動は、一般に適応的な、何をすべきかについて意識的な思考を必要としない行動を生み出す。そしてカメラのオートモードのように、環境からのインプットを行動としてのアウトプットにどう対応させるかという情動反応の設計は、過去の経験という教訓を組み込んでいる」(第5章, p.175-176、太字は本稿筆者)

更に、グリーンは「オートモード」には、自分自身の経験だけでなく、遺伝子によって形作られ遠く昔に滅び遺伝子的には私たちにたどり着くことがなかった親戚たちが身をもって学んだ教訓が組み込まれ、更に、文化的学習による試行錯誤の影響を加え、この3つの要素を土台として形成される、と述べている。

こうした文化的な過去の様々な文化的経験を土台を持つ脳の「オートモード」は、情動に導かれて、直観的に、素早く<私>を律し、<私たち>を適応に導く判断へ誘導する自動的な装置なのである(グリーンの「道徳マシーン」という表現を思い出そう)。

こうしたグリーンの「オートモード」についての詳説は、これまでこのシリーズで見て来たヘンリックやハイトの主張「人間は集団種であり、道徳を働かせる脳の仕組みは、文化との共進化により適応的に人間に備えられたメカニズムである」、「まず直観」と見事に合致している。

認知制御を行う「マニュアルモード」

このような特質を持つ道徳マシーン「オートモード」は、人類の進化適応と共進化してきた。しかし、「オートモード」は自動的である。それが故に、柔軟性に欠け、部族間にまたがる問題解決を阻害してしまうきらいがある。この「オートモード」の特性/欠点を補い、「常識的道徳の悲劇」を解決する機能を発揮しうるとグリーンが期待するのが、二重過程の道徳脳のもう一つのメカニズムである「マニュアルモード」である。

脳のマニュアルモード(すなわち認知制御を行う能力)は、根本的にオートモードと異なる働きをする。まったくのところ、認知制御の機能は、まさにオートモードを使って解けない問題を解くことにある。」(第5章, p.186)

共同研究パートナーの脳神経科学の大家ジョナサン・コーエンとのfMRIを使った研究を通じて、グリーンは、上記の引用にみるように、脳の「マニュアルモード」の特徴は認知制御にある、と言い切っている。

認知制御とは、文字通り、(直観や情動による)認知や認知によって導かれる判断を制御する仕組みを指す。脳の前頭前野背外側部(dlpfc)による、情動に対する認知制御の働きの詳細は、前回のトロッコ問題を通じた考察の箇所を参照して貰いたい。

グリーンとコーエンらは、脳の前頭前野背外側部(dlpfc)が、認知制御のオーケストレーションを司る機構であるとしている(第5章,p.179)。この観点が軸となり、『認知制御を行う「マニュアルモード」が「情動のオートモード」を制御できるという論理がグリーンの論考の基底になっていると考えられる

グリーンの目指す深淵なる実用主義~功利主義

ここまでが『モラル・トライブス』上巻第二部まで(全体の分量の約1/3)の要約になる。上巻残りの第三部、第四部、第五部、および下巻では、マニュアルモードをどのような場合に使うべきかなんのために使うべきかについて、思考実験や様々な研究事例をベースに、哲学的で緻密な論理的考察を更に積み重ねていく(第四部のトロッコ問題探索の箇所は前回一部紹介している)。

複雑で膨大で緻密なグリーンの論考を詳述することは困難なため、ものすごくおおざっぱになるが、これからの共通道徳として、「功利主義」が深淵な実用主義に資するとする部分について簡単に纏めてみよう。

・現代の課題を象徴する「常識的な道徳の悲劇」を解決するためのメタ道徳「道徳の共通通貨」とは何かは、マニュアルモードを使って探し出せる

・「道徳の共通通貨」は、理想論ではなく、現実への適用に資する「深淵な実用主義」でなくてはならない。「深淵な」という表現には、部族毎の価値観の対立をゆっくりでよいから超えていこうという主張が、「実用主義」には、実際の問題を解決できるものである必要がある、という意思が込められている。

・「何であれもっとうまくいくことをする」という「深淵な実用主義」にかなう考え方は、「功利主義」にある。ベンサム、ミルによって提案された功利主義は、その名前も含めて多くの誤解を生んでいるが(一例を挙げれば、利益(のみ)を最優先するというような捉えられ方)、難しい道徳的決断を行うための一般基準として「すべての行為は、幸福に与える影響の総和によって生まれる」(第6章, p.203)という考え方は、「どのような思考が新しい牧草地にふさわしいか?」に唯一解を与えるものである。

グリーンの新「功利主義」を構成する、幸福の捉え方や影響に関する哲学的問答については、本書に触れて自身で探索してみていただきたい。

本稿の最後として、本格的な論考に入る前に記述されている、グリーンの功利主義の捉え方や功利主義的判断の利用の仕方をデュアルプロセスの特性も踏まえて記述しているエッセンスとなる一節を紹介して、本稿のレビューパートを終わりにしたい。

以下の引用部分をより注意深く読み取るために、「・・・ではない」から始めて「・・である」という逆説的な修辞から始める文体を取っていることにも着目してもらいたい。このような修辞表現・文法構造自体が、直観を抑制し、マニュアルモードの思考を促す、より深い理解に向けたグリーンからのメタ的なアドバイスになっている。
この説明の意図を理解出来た方は、オートモードとマニュアルモードの違いと特性をよく理解されている。

「功利主義は、とことんまで突き詰めれば、意思決定の手続きではない。とことんまで突き詰めた場合に何が重要か、何が価値を置くに値するのか、それはなぜか、に関する理論である。功利主義は、自分の行為の予想される費用対効果を絶えず計算すべし、とは言わない。むしろ通常は、自分の道徳的直観を信用せよ、と言う。なぜなら道徳的計算に明け暮れるより、その方がよっぽど私たちの益になる可能性が高いからだ。
 功利主義は、より大きな善に奉仕している者の後について行進せよ、とは言わない。むしろ、人間の本性に内在する限界やバイアスを踏まえて、よい結果につながる確率が高くなるように意思決定を行うべし、と言う。そしてユートピア思想を掲げた政治の歴史を考慮するなら、より大きな善を遂行すると主張する指導者を疑ってかかれと言う。
 要するに、功利主義は、黄金律の公平性と、人間の経験という共通通貨を結び付ける。そのことによって生まれる道徳システムは、道徳のトレードオフを承認し、道徳どうしで裁定を行なえるシステムだ。しかも、その裁定をすべての部族の成員にとって納得できる方法で行うことができる。」
(第6章 すばらしいアイデア, p.224、太字は本稿筆者)

MHP/RTによる読解~マニュアルモードの適用条件

グリーンの『モラル・トライブス』での論考を、「オートモード」と「マニュアルモード」という脳の二重過程を構成する機能の理解を中心に、駆け足で眺めて来た。

「マニュアルモード」の使い方を知り、適切に、適切なときに利用することで、これからの共通道徳として深淵な実用主義である功利主義を敷衍することが出来る、というのがグリーンの主張である。

しかしながら、この主張を読んで、「マニュアルモード」は「オートモード」を容易に制御しうるもの、誰でも適切に利用しうるものと、捉えることは、適切とはいえない。

豊田・北島の脳構造マクロモデルMHP/RTを用いて、この理由を説明しよう。

下記の一番上の図は、MHP/RTのシステム1とシステム2の振る舞いのポイントを端的に示したキーチャート、真ん中の図は、本シリーズの#3で掲載した図と同じもので、あるイベントに着目したときのシステム1とシステム2の処理の流れを解説したものである。一番下の図はおなじみのA.ニューウェルの解明した人間の活動の作動時間帯域の階層構造を示したものである。緑枠がシステム1の作動帯域、黄色枠がシステム2の作動帯域である。

北島2019MHPRT+MDM

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NEWEL×帯域


A.ニューウェルの解明した作動時間帯域の違いにより、情動・認知と深く速く連携しているシステム1が作動しているときは、システム2は全く作動していない。これが前回に触れた、「認知の警報装置は近視眼である(副次的影響が見えない)」ことの構造的要因の一つである。システム2は、システム1の作動後、事後的に作動して行為選択の妥当性を評価する。

ハイトのレビューの最終回(#7)と前回#8で触れたように、グリーン自身、マニュアルモードを作動させるには、熟考など、時間制約を緩めることが必須である、と述べている。すなわち、マニュアルモード=システム2を作動させるための必要条件として、充分な時間余裕・制約時間の緩和が必須なのだ。

しかしながら、システム2を「適切に」作動させるには、時間だけでは十分ではない。システム2の振る舞いを決める、過去の経験の記憶との適切なリンクが不可欠である。

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上記の豊田・北島の2012年のBICAのポスターの最下部の「Resonance」の説明箇所を参照して貰いたい。記憶は、システム1とシステム2別に自律的に作動し、パターンマッチングしてリンクが辿れた恣意的な望む記憶を返却する。また記憶は、事後的にフィードバック処理で、発生したイベントの評価を情動的なもの加味した上で蓄積されるため、ポジティブなものほど記憶としてイベントでのパターンマッチングの際に想起されやすい(ハイトの回の#5で、IQの高い人でもシステム2は自分の判断に沿う証拠を集めるだけの能力しか持たなかったことを思い出そう)。

つまり、制約時間が十分に緩められているときでも、システム2・マニュアルモードがいつでも適切に「功利主義的判断」の作動をできる保証、認知制御が情動を抑制できるほどの効用を発揮できる保証は、二重機構的にはどこにもない。

言い換えれば、「功利主義的判断」を下すようにマニュアルモードを意図的に適切に作動しうるのは、グリーンが高校時代に親しんでいたディベートのように、色々な立場に立って思考する「経験」を繰り返し積み重ねてきた「記憶」を持つ、”WEIRD”な人しか出来ない。残念ながら。

それでも、なんとか、うまくやっていくにはどうすればいいのだろう?
これが、現在の私たちに突き付けられている課題である。

(the Photo at the top by @Photohiro1)


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