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大切だからこそ生きて欲しいと願う

数年間の前の出来事。
その親戚のおじさんに、2~3ヶ月前に会った時は、元気に走りまわっていた。
可愛い孫を抱いて、幸せそうに笑っていた。

その後すぐに、癌がみつかったそうだ。
国立がんセンターに入院したおじさんを、母と一緒にお見舞いに行った。
見晴らしの良い面会者のためのスペースで、面会に来ていたおばさんと話した。

『生きていて欲しいから、家族みんなで話し合い、本人は望んでいなかったけれど説得して、癌と闘う選択をした。』
と言っていた。

抗がん剤の治療が始まり、
数日して危険な状態になった。
おじさんの呼吸は苦しそうで
息をするのも必死の様子だった。

ほんの少し前まで、孫を抱いて元気に走り回っていた人とは思えないほど、
身体中が腫れて別人のようになってしまった。

最後に面会に行った日、母に甘えて
『姉ちゃん、苦しい…』
と、やっと絞り出した声で伝えていた顔が今でも忘れられない。
そのまま退院することなく、
病状は改善されないまま、数日でおじさんは寿命を迎えた。

お葬式の時、おばさんや娘さんは何度も涙ながらに
『ずっと生きていて欲しかったから、癌の治療を選択した。』

と言っていた。

あんなにも元気にしていたおじさんが
癌の治療が始まった途端に、すぐに亡くなったから

がん治療をしたから、自分たちが説得してしまったから
早く亡くなってしまったのかもしれない。
治療をしなければ、いずれは亡くなるけれど、もう少し長く一緒にいられたのかもしれない。

そんな悲しい後悔の思いが伝わってきた。

自分たちの選択が、大切な存在の寿命を早めてしまったのではないか?
という思いを
生きてる人たちが抱えてしまった。

そう感じてしまう気持ちは分かる。

けれど、

きっと人の寿命は
そういった一連の関係性も全て含めて、決まっているのではないかと私は思っている。

2番目の姉が言っていた。
『寿命は他人がどうこうできるようなものではないの。何とかできると思う方が傲慢なのよ。それほど尊くて、簡単ではなくて、人智を越えるものなのよ。』

だから誰がどうこうしようとしたところで、誰かのせいではなく、その人のせいではなく、
役割や寿命なのだろう。

生きる存在には、
必ず終わりが来る。

おじさんに癌治療を勧めた人のせいでもなく、抗がん剤を打った人のせいでもなく、おじさんの寿命なのだと思う。

姉はそういうことを私に教えたかったのだろう。

ではここで、視点を変えてみる。
おじさんはどう思うだろうか?

もうすでに亡くなってしまったから、聞くことはできない。

だから、もし自分ならばどう思うのだろうか?
と考えてみた。

大切な愛する家族が、自分の病気のせいで、ずっと後悔の思いを抱えて苦しんでいたら
私はきっと悲しいと思うだろう。

私を大切に思ってくれて、愛してくれた。家族と共にいられた時間はとても幸せだった。
だから、家族と出会えて、沢山の幸せをくれた人たちに感謝をしている。

この人達と共に
一緒に生きられて良かった。

そんな大切な人達には、これからも幸せに生きて欲しいのに
私の病気のせいで、私が死んだせいで、ずっと苦しんでいるならば
それはとてもつらい。

言葉にして伝えることもできないから、悲しくて悲しくて
申し訳ない思いでいっぱいになってしまう。

それを伝えられないのは
本当に…はがゆくて、悔しい。
自分の寿命が尽きてしまったことを悔やんでしまいそうだ。
大切な人達を苦しめた自分を
恨んでしまいそうだ。

できれば、私の寿命が尽きたことばかり考えるよりも
私が生きていた時の事を思い出してほしい。

私がどんなに楽しくて幸せに生きていたのかを思い出してほしい。
私との楽しかった時間を思い出してほしい。
一緒に笑いあったことを、思い出し笑いして欲しい。

私が大切に思っている家族が
これからも幸せに生きている様子を空から見ていたいんだ。

大好きな人達の笑顔を
ずっと見ていたいんだ。

大切な人達が幸せそうにしている姿を見るのはとても嬉しいんだ。


そう思わないかい?

サポートありがとうございます。これからも頑張ります。🐈✨