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オセロと戯曲

昨年の公演でUNOをやりながら芝居をしてもらった。そして次回はオセロをやってもらおうと思い、買ったまま箱に入れて放置してある。開けても一人じゃ出来ないのだ。

勿論、一人でネットにある無料のオセロゲームを時折やっているけれど一度も勝ったことがない。オセロってこんなに難しいんだっけ、と思いながら勝ったことがない。初級で勝てないから上級にしても勝つわけがない。

次回公演のオセロはUNOのときとは違って、セリフで決められた動きなどはないのでそこまで難しいことはないだろう。実際やらなくてもいいぐらいだ。ただ美術としてそこに置いてあるだけでもいい。

白か黒か白黒白黒、表裏表裏、返して返して、視界がうるさい。そんなゲームだ。いやそんなゲームではない。ただ、盤面に自然と何か絵柄が浮かんでくるようにゲームが進んでいくと面白いですよね。

この世には正義と悪、表と裏、白か黒かと表裏一体の関係性がある。被害者と加害者、inそしてout。

私が書こうとしている世界は決まって側の話になる。何かと何か。外と内。勝者と敗者など。

芝居中でオセロの勝敗が決まるのも面白いかもな。そんなことをぼんやり考えながら、戯曲を書いている。あーでもこーでもないと言いながら。言っていても誰かに聞かれることもない。それはもしかしたら言っていないかもしれない。誰かに聞かれない言葉は有無で言えば無とすることも出来る。初演ハルナツではこういう言葉がある。

「あなたが虹を見なかったら、あったこともなかったことになるわ。」

ハルナツはこの言葉が作品を物語っていると今でも思っている。ただ、子の言葉が再演で出てくることは今のところないのだろうという予感はしている。

カメラマンが女子高生タレントに手を出したというスキャンダルで歩むはずだった人生を失う。それが本当かウソかなんて見ている側には関係ない。それをカメラマンは誰よりも理解していたからこそ、そういう行動に踏み切る。ただただ若い人のこれからが奪われないために。誰かが褒めてくれるわけでもないし、得るものなんてなにもないのに、失うものの大きさは計り知れないと言うのに。

再演では終わり方も変わるだろうことは今の段階でも見えていることの一つ。それが再演なのかとも言いにくいが、戯曲、初演と再演というのはそうあってもいい、というのが私個人の考えだ。

どう生まれ変わってくれるのか、そもそも春と夏という初演をただ1作品にまとめるだけであれば4時間程度になる。そして再演で初めて出てくる役もある。原稿が40枚を越えてくるとああ、終わるなと思うと同時に、危険信号が灯る。プロットどおりに終わればいいが、そんな簡単には終わってくれない。プロットどおりにやると3時間はゆうに越すような分量になるとか色々とある。オセロのように戦略を練って、一つ一つマスに言葉を置く。一気にひっくり返されて危機に直面することだってあるだろう。そういうとき如何に脱するかが鍵だ。私はその鍵を見つけることは出来るのだろうか。

オセロとは斯くも難しき遊戯なり。

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