私は、を書かない
なぜ書くようになったのか、第8回です。
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いよいよ、卒業制作の審査発表の日が来ました。
提出された一つ一つの原稿に、二人の講師がコメントをくれます。
最後に、上位者が発表されるという段取りでした。
まず最初に全体に向けて言われたことは次のようなことでした。
評価の基準がこの記事がお金になるかどうかということ。
そして「私は」を書いていないこと。
あぁ、僕はほぼ自分のことしか書いていないので、ダメ確定です。
ライターとして記事を書く場合、私の意見はまったく必要ありません。
今ならそれは当然だと思いますが、その時はよくわからなかったのです。
案の上、僕の原稿に対しての評価は良くありませんでした。
一人の講師は、
「また個人的な話を読まされるのかと思って嫌になりました。ホスピスのことが少し書いてあってそれはまだ良かったですけど」みたいな感じした。。
でも、もう一人の講師であった、日経エンタテインメントの品田さんは次のように言ってくれました。
「僕は人間力を感じましたね。まるで村上春樹の小説を読んでいるようでした。お金にはならないけれど、お金お金言ってちゃダメなのかもねぇ」
今回の基準とは違う部分で評価をしてくれたのは嬉しかったです。
そして結果は。
箸にも棒にも引っかかりませんでした。
特別賞とかそういうのにも何にもなし。
正直がっくりきましたね。。
俺には書く才能はないのかもしれないと。。
書くという行為は、小説家のように自分の中から生まれてくるものを書くというものと、ライターのように取材して自分を消して書くというものではまったく別ものだということを初めて知ったのでした。
(とはいえ、ライターもどのみち自分のフィルターを通して文章になるので、消しきれる訳ではないです。これは後々わかってきました)
結局、結果を残せないまま、僕の編集ライター講座は終わったのでした。
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続く
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