『はこぶね』
メインは映画『はこぶね』の感想だが、大西監督が参考にされた『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(伊藤亜紗著、光文社新書)も踏まえて書く。ネタバレを含むため前書きと本文との間に距離を取る。
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
はじめに言っておかなければならないことは、この映画は単なる目の見えない人の話ではなく、西村芳則という人間を描いているということである。9月1日の舞台挨拶でも、西村を視覚障害者の代表にはしていないという旨を監督がおっしゃっていた。
健常者が主人公のドラマや映画を見ても、彼あるいは彼女が設定上の性別、年代の代表だとは思わないだろう。むしろ視聴者自らがその属性に近づこうとし、感情を共有したいと考える。一方で、障害者が主人公のコンテンツにおいては、無意識だとしても、あたかも彼あるいは彼女が障害者の代表であるかのように受け取ってしまう傾向が自分にはあった。我々一人一人に個性があるように、例えば視覚に障害があることは同じであっても、先天的・後天的か、どの程度見えるのかは人それぞれであるにも関わらず。
心のどこかで自分とは違うと境界を引いている。
タイトルの元になったであろうノアの方舟では大洪水で世界が全く変わってしまう。映画『はこぶね』と『目の見えない人は〜』は私の中で意識の大洪水を起こした。
数ある印象的なシーンから3つを中心に感想を述べる。
他者の世界を肯定する、より大きな世界
最初に挙げるのは、主人公が深夜に認知症の祖父(一人暮らし)の家に行くシーン。「窓ガラスが破られた」と電話を受けたのだが、実際には割れていない。はじめ西村は否定するが、祖父の中では窓ガラスが割られた世界が出来上がっており激昂してしまう。西村は台所でグラスを合わせて音を出し、片付けたと言って祖父を安心させる。
例えば、ご飯を食べたことを忘れてしまった人に対して「これから準備する」というテクニックがあるそうだ。
このような応対は知識として持ってはいるが、その場に直面したときに実行できるかは、正直わからない。
西村は最善の方法をおそらくあの場で考え出したのだろう。人間西村の特性がとても出ているシーンだと思う。
透明人間はなぜ透明なのか
次は、主人公と中学校の同級生 碧とがバス停で話すシーン。碧は入院している母を看病するため一時的に帰省している。はじめは再会した西村を避けるような態度を取っていたが、次第に打ち解けていく。
ここでは西村から「透明人間」という言葉が出てくる。ここでの透明とは、周囲から自分の姿を知覚することができないだけでなく、自分からも他人を認知できないことを指す。知覚や認知をまとめて相互作用と言い換えると、自分と自分以外との間の相互作用がない存在ということになる。
『目の見えない人は世界をどう見ているのか』を開くまでもなく、我々は視覚を存分に使って生きていることは疑いの余地がない。少し長いが興味深い箇所を引用する。伊藤さんが暗闇を体験できる施設「ダイアログ・イン・ザ・ダーク(DID)」に行った時の経験が語られる。
相互作用の対象を人間以外の物体にも広げれば、どこにもぶつからず移動できるということも考えられるが、それはそれで不便さも出そうな気がする。
ちなみに、透明人間という言葉は西村役の木村さんから提案されたということだ。
命を預けるということ
ところで、公式サイトやX(旧Twitter @Hakobune_TheArk)に投稿された予告編ではゆったりとしたギターのトレモロが聞こえてくる。漁港という舞台を表現しているのかのごとく、全体としてのどかな雰囲気をまとっている。だが、この音楽が全く違う様相を見せる場面がある。
それは、やはり深夜に祖父が交番に保護されたという連絡を受けた西村が、碧に車を出してもらった帰りの。唐突に運転させてくれと頼む。「ゴールドだよ」と付け加えて(このセリフも木村さんの提案らしい)。
段差はタイヤを通してお尻から伝わる感覚でわかりそうだが、車線をはみ出すことはないのだろうか。不安を乗せたまま車は走り出す。ヘッドランプが左右に揺れる。音楽も相まって緊張感が高まる。深夜だが、他の車が来ないとも限らない。と思っていたら反対車線にトラックが! クラクションを鳴らされるがぶつかることはなかった。
車の運転は、もちろん聴覚や触覚も使うが視覚と運動が直結し、なおかつミスが大事故に繋がりかねないものだ。だが、事故で視力を失い、今までできていたこと(日常生活以外にも絵を描くことなど)ができなくなってしまった主人公にとって旧世界との繋がりを取り戻す経験だろう。そして、目の見えない人に運転はできないと思い込んでいた私にとっては、これくらいの衝撃だった↓
他にも西村が碧の存在を"見て"いるシーンや、昼食の対比、釣りのシーンなど色々あるが、まとまりがなくなってしまいそうなのでこれで留めておく。振り返ってみると、イメージが残りやすい作品であるという気がしている。監督が意図していたかはわからないが、もしかすると西村の世界と"見よう"とした結果そう感じたのかもしれない。
惜しむらくは、この映画に音声ガイドや字幕が付いていないということである。多くの人に見てもらいたいので、今後上映館が増えていってほしい。
次は『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』(川内有緒著、集英社インターナショナル)を読もう。
おまけ
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?