見出し画像

【福島第一と女川】

おはようございます!
先日、紫竹山コミュニティ協議会の視察で福島第一原発(東京電力)と宮城県女川原発(東北電力)を視察してきました。


報告の順番が実際に回った順番と違いますが、まずは宮城県女川原発(東北電力)について。

まずは、会社全体が明るい。東日本大震災の震源地からもっとも近く、津波も福島第一原発と同等の津波にさらされながら、大きなトラブルもなく?(トラブルはもちろんたくさんあったんでしょうが)原発の安全性を守り切ったというプライドが感じられる説明でした。


地震によって原発は安全に停止(ここまでは福島第一原発と同じ)その後の水の冷却も無事に行われた。

予備電源が津波を想定して高台に設置されていたこと(本電源もかろうじて一本残っていた)、当初から地震と「津波」を想定して堤防等を建設していたために、原発全体が津波から守られました。


写真に撮り忘れましたが、専門家と打ち合わせし、何度も何度も防潮堤の高さを変えていたんですね。過去の資料を見て防潮堤の高さを検証し続け、そしてその想定通りの津波が実際に来ました。


前の日は、東京電力「福島第一原発」へ。現地に行ったわけではもちろんなく、実際は東京電力廃炉資料館。


地震によって原発が安全に停止したのは女川と同じ。ただ、その後、電源の消失によって冷却ができなくなり、水が蒸発し、炉心がむき出しになり、溶け出し、今なお取り出すことができません。


1,2,3号機はメルトダウン。運転停止中の4号機をはじめ、1,3,4号機で水素爆発を起こしました。2号機は1号機の爆発で破損していて、水素がたまらなかったと説明があったはず。。(4号機の水素爆発は3号機の水素が流れ込んだと説明がありました)

津波によって地下に設置されていた予備電源(非常用ディーゼル発電機)が壊れ、異常の事態となりました。これ以上は詳しく書きませんが。

最後は富岡町のアーカイブミュージアムへ。
地震によってたくさんのモノが集まってきて、それを展示補完するスペースが必要になったころから建てられたものだそうです。


住民の方のインタビューでは、避難の指示が出ていましたが、原発の情報も入らず、なぜ逃げているのか、分からない方も大勢いたそうです。津波は終わったのになぜ??という感じで。


実際に津波にやられてしまったパトカーとかもぐっとくるのですが、何気ない日常の新聞とか、2011年4月に行われる予定だったポスターとか、ホワイトボードの文字とか。


そういう日常に一番、時の長さというか、日常の大切さというか、感慨深いものを感じます。

こういうことが起こると、いつも日常のありがたさを感じるのですが、それでも日常はいつもすんなり過ぎていってしまいます。

切り取って大切にしておくことができない。。

失わないと感じられないというのは、人生を損しているなあと感じますが、それでも感謝しつつ、生きていくことはできますし、少しでも日常に愛着を持ちつつ、過ごしていきたいなと。

毎朝5時に起きてSNSの更新をすることと、こどもたちの勉強を見ることが私の一番の幸せです。

あと何年こういうことができるか。

中学2年生の息子は新潟だけでなくて、県外の最高峰の高校を受験するようです。この前話し合いました。(受かっても行かないと思いますが、記念受験じゃなく本気でやってみようかなと)

どこかの高校に受かってもらいたいわけじゃなく、最高峰を目指してそれに向かって努力する経験をしてほしいなという思いがあります。目線を変える、ということ。IKINUKIの進化版です☺

私がこどもたちにできることも少なくなってきました。

孫に「じじ!!!」と呼びつけられる週末です(笑)

日常に感謝しつつ。
これからもよろしくお願い致します☺

本日はここまで。
それでは本日もよろしくお願い致します!!

#東京電力
#東北電力
#福島第一原発
#女川原発
#富岡町
#アーカイブミュージアム
#受験
#日常に花束を
#なにげない
#孫
#じじ
#今日も頑張りますか



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?