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<映画鑑賞>怪物 〜教職について思うこと

坂本龍一さんの最後の映画音楽を劇場で聴きたくて
映画「怪物」を観てきました。

ピアノの調べは美しく
パンフレットも秀逸でした。


ストーリー自体は、今の社会問題をいろいろ孕んだものであり
結末ははっきりとした答えを示していませんが

はっとさせられたのは
校長先生の言葉


「特別な人しか手に入れられないものは幸せとは呼ばない
誰でも手に入るものを幸せと呼ぶのよ」

(細かい文言は違うかもしれませんが)

この言葉を、綺麗事だと思う方もいらっしゃるかもしれませんが
私はそうは思いません。この言葉こそ真理だと思います。

映画を見ながら遠い昔、学生だった頃、教員だった頃を
思い出していました。

ゼミの教授が最後の授業で話された


「心の琴線が美しく奏でる感動をいつも心に持って、生徒に向かいなさい」
「生徒たちは、皆、心に琴線を持っている。一人一人その音色も感じ方も違う。
そのことを忘れないように」

教授はゼミ生に、講義の中から心に残った言葉を色紙に書いて
くださる方でした。私は迷わず「心の琴線」をお願いしました。

卒論を提出すると、特に授業もないので
早めに下宿を引き払い、卒業式前の数日友達の家に居候していました。

学内での送別会を終えて、外に出ると
一面の銀世界でした。そしてその中にぽつんと立っておられる
教授の姿を見つけ、慌てて駆け寄りました。
「明日、色紙をいただきに伺おうと思っていました!」
「そうだったんだね。下宿の住所に届けに行ったらもう引っ越していたので
今日しか会えないと思って持ってきた」とおっしゃるのです。

「声をかけていただければよかったのに」というと
「学生たちの楽しみに邪魔をしてはいけないから」と
教授の傘には沢山の雪が降り積もっていました。
いつから待たれていたんだろう・・・・

渡された色紙は教授のコートの中で暖かく
受け取るときに触れた指の冷たさにはっとしました。

そして、さっさと頂きに行かなかった自分を恥じました。
あの日以来、先生の傘に降り積もった雪は瞼に焼き付き
半世紀近く経った今も、思い出すたびに、心の琴線を熱く震わせます。

子供が嫌いなのに教職を選ぶ人はほとんど居ないと思います。
置かれた環境や対人関係でやむなく変わっていく人もいると思いますが
教職を選ぶ大半の人は子供が好きで、使命感を持っています。

私の可愛い教え子たちは他にも「先生」になっている子が多くいます。
きっと、日々失敗したり反省したり泣いたり笑ったりしながら
頑張っていると思います。

時代も、社会も変わっていますが
生物としての人間は変わらないと思います。
そして、その人間も、全員が同じでないことも。

学校カウンセラーの研修を受けたときに
児童相談所の所長さんからこんな言葉を聞きました。

泣いて学校を出た子は、家庭が温かく迎え
泣いて家を出た子は、学校が温かく迎え
どこにも居場所がない子は、我々が引き受ける

子供はだれでも自分を守るために嘘をつきます。
昔の子供は、先生に叱られたことが親にわかると
さらに親に叱られるので、黙っていましたが
最近の子供は、親の学校批判心を掻き立てるようなことを
言う子もいます。

日本の学校教育、教員が窒息してしまわないうちに、なんとか応援出来ないものかと思っています。

教育が崩壊すれば、国の未来はありません。

藤原さんのこの本
「はじめに」の部分だけでも多くを語っています。





以下、一部転記

教員はスーパーマンではない

最初に断っておくが、教員がウソをついていると言いたいわけではない。  保護者をはじめ、社会全体が圧力をかけてウソをつかせているのだ。  まず、現場も知らずに文部科学省を統括する政治家や、それに従う自治体の教育委員会のガバナンスが悪い。  環境省ができれば「環境教育」を、消費者庁ができれば「消費者教育」を、金融庁ができれば「金融教育」をというように、現場の実力を超えてレッテル付きの教育カリキュラムの雨を降らせ、教員の事務量を増やしてしまった。  例えば中学校。中学の社会科の先生は、社会科の授業の他に、教科を超えて国際理解教育も情報教育も食育も心の教育も尖閣諸島・北方領土のことも教えた上で、ときには自転車の窃盗事件で警察に捕まった生徒の身元引き受けにも駆けつけなければいけない。親に連絡がつかない場合、それは教員の生活指導の一環であるからだ。さらに、部活の指導や親から個別の相談もある。  小学校では、これに英語とプログラミングの指導が降りてきた。  こんなに多様な仕事をこなすスーパーマンはそうはいないから、真面目で一所懸命な教員ほど精神的なバランスを崩しがちだ。精神疾患などの病気による休職、離職が年々増えている。  

教育評論家のウソくささも指摘しておこう。

何でも「学校が悪い」「教員が悪い」と大袈裟に宣う、テレビコメンテーターのことだ。  もちろん、いじめ事件を隠蔽して子どもを死に至らせてしまうようなケースは弾劾すべきだ。しかし、いじめや不登校は本来、社会問題である。家庭やコミュニティや日本社会全体の歪みが一番噴き出しやすい学校で噴出したからといって、すべて教員のせいだと学校に責任を押し付けるのはどうかと思う。  冷静に考えればむしろ、逆である。  少子化と核家族化の進行でまず家庭の教育力が下がり、次いで地域社会の後退・衰退によってコミュニティの教育力も下がってしまった現代社会で、学校の先生が踏ん張って負担に耐えてきたという実態がある。

起きている時間を16時間として365日で約5800時間だから、学校での授業は全生活時間の13%程度になる。この数字を基に、私はよくPTA向けの講演会で子どもたちの現実を次のように伝えている。 「テレビとゲームで1日3時間遊んでいれば年間1000時間以上になりますから、主要教科をその半分の時間しか学ばない学校教育だけで学力が上がるわけがないんです。ちなみに国語は年に100時間程度ですから、日本語より確実にテレビやゲームの言葉を話すようになるでしょう」  

学校が、学力や礼儀、生活態度や人格も、人生を切り拓くすべてを教える場だと考えるのは大いなる誤解であると。公立・私立にかかわらず、息子、娘を入れておけば、工場のように理想的な日本人が産出されてくるとは決して思わない方がいい。  そして、悪いことがあると何でも「学校のせいだ、先生が悪い」というのはマスコミや評論家の口癖だが、これはミスリードであって真実ではない。まったくのウソである。

本業回帰で蘇れ  

社会からの誤解に応えようとしてウソをつかなくてもいいように、学校は何をしなくても良いのかを明らかにするつもりだ。  学校のウソくささを解決する私なりの処方箋である。  私企業の世界では、アップルも、スターバックスも、レゴも、ユニクロも、ソニーも、「本業回帰」「原点回帰」の精神で蘇った。

学校もそろそろ、学校という児童生徒が集まる装置で、「教員という人間ができること」に集中しよう。  できないことまでさせるから、ウソくさくなってしまうのだから。


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