人の選択に自身が介入することで起こる未来の変化

Twitterのリプ、YouTubeのコメント、学校での生活、仕事。これらは社会(特に日本国内)での活動において人間が他者と関わりを持つ場だ。
人は有りと凡ゆる場面で他人の領域に踏み込む機会がある。

また、人が認知可能な世界には限りがある。
これら有限の世界の中で人間は経験的に物事を学習し、独我(この世界に物自体が存在すると仮定したとしても、その物に対する自分の心象はどのような場合においても独我にならざるを得ない。)の中で他者の思考と感情を推測する。

だから、ある物事を好んで自分の認知の範囲内に介在させると、例え物自体が存在するとしてもその認知対象に何らかの影響を与える際、現状最適だと判断した解を与えるに過ぎない。

自己の行動によって人類の最大幸福が実現可能だと考えその最大幸福のために行動するような者にとって、自己の保守を優先する場合そこに存在しうる認知対象へ自身の介入によって不幸が訪れる可能性が、介入者自身を限りなく傍観へと近づけようとする衝動を引き起こす。
その介入対象が人間であるならば、介入者自身だけの満足のために成される場合、介入された人の個性の偶然的成長を阻害することがあるためである。

しかし、自身が介入するしないに関わらず、必ずその対象の未来には不幸の可能性が存在しうる。

よって、他者への介入をして改悪がなされることを憂い傍観をするよりも、介入によって改善される利益を重視し行動する方が自己の欲求を満たすことに優れている。自己保守は非効率的である。この世に存在し他者への介入で自己の欲求を満たすことが可能ならば、他人の領域への介入は自分と相手両方の利益の最大化がなされた場合のみ、自身の幸福となるだろう。

例えば、他者が自殺をしようとし自身がそれを知っているとしたら、止めるべきである。自殺志願者及び自身の幸福を最大化させるには、未来に存在する幸福の可能性を考慮することが最適解であるからだ。

そして、ここからさらに言えることは、相手が自身にとっての不幸を遂行するのではなく、未来の幸福可能性へ向かう場合、自身の介入によってなされる幸福の最大化よりも大きな期待ならば「相手を知る」という最小の介入にとどめるべきである。

人間はそもそも存在理由がわかっていない。だから、あらゆる事象は必然であるし自己の欲求を追求することは今を良いものにすることになる。

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