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こころ豊かに独楽吟 橘曙覧


はじめに 

  橘曙覧は、激動期の幕末に生きた歌人です。清貧な生活を過ごしながら日常生活で自分を励まし行きてゆくことの喜びを和歌の原点である万葉集に残る真実の和歌を心豊かに歌っています。橘曙覧は我が国は失われた30年を経て衰退し続ける現代人に多くのことを示唆してくれています。

橘曙覧は、23歳のとき飛騨高山の師田中大秀に万葉集、古事記等を学んだ。帰郷後、曙覧は家業の文具商を弟の宣にまかせ、その後、家業、財産すべてを弟に譲って足羽山の中腹のあばら家に移り住んだ。

 曙覧は、芭蕉や良寛のように独身ではなかった。家族の生活を守るために、寺子屋や、歌の添削指導、それに写本の仕事、ときには自分の書の謝礼など、収入の道があったが、これだけでは妻子の生活を養うには苦しかったのですが、曙覧の生活は充実していた。

 短歌に
あるじはと人もし問はば軒の松
あらしいひて吹きかへしよ                      
山遊びの人が酒を飲んでよります
「あらし」と追い返しておくれ

まことに貧しいながらも満ち足りた生活でした。ただ山の上ですから水が不便 なのには困った。百坂と言われる急な石段を、妻は、毎日天秤棒を担いで水を運びました。
このことを曙覧は

袖干の井戸跡

漏らしこし妹が袖干の井の水の湧きいづるばかりうれしかりけり

妻への優しい思いが募る優しい男らしいいい短歌ですね。さらに橘曙覧の独楽吟を一部抜粋してみますと

たのしみは、艸のいほりの 筵敷き ひとりこころを 静めるとき
たのしみは 妻子むつまじく うちつどひ 頭ならべて 物をくふ時
たのしみは あき米櫃に こめいでき 今一月は よしといふとき
たのしみは 雪ふるよさの 酒の糟 あぶりて食ひて 火にあたる時
たのしみは まれに魚煮て 児等皆が あましうましと いひて食ふとき
たのしみは 銭なくなりて わびをるに 人の来たりて 銭くれし時

車で福井県の足羽山、橘曙覧記念文学館を生誕地をゆかりの地を何時か訪問して学びました。独楽吟「独り楽しめる歌」52首は「志濃夫廻舎歌集」に掲載されています。  
近代短歌の先駆者です。万葉集は日本古典文學大系の全4巻の万葉集を全巻読了した愛読書ですのでよく理解できます。独楽吟52首に出会って薫陶を受けていらい、何首か詠み手帳に残しています。そこから10首選び文末に掲載しましたました。

橘曙覧記念文学館
黄金舎跡の碑

この記念碑には阿須波山にすみけろころ 秋のころ人しげく来にけるをわびて顔をさへもみぢに染めて山ぶみの かへさに来よる人のうるさ
 朝きよめのついでに
かきよせて拾うもうれし世の中の
 塵はまじらぬ庭の松葉
と曙覧の思いが刻まれています。

橘曙覧の宅跡 黄金舎から藁屋へ

不便な生活を見かねた友人や弟子たちが。嘉永元年(1848)郊外の2階建ての家を新築してくれました。
 林の中の一軒家でした。曙覧は「藁屋」と名付けました。足羽のあばら家を「黄金舎」新築の家を藁屋というのは、どんなところに住んでも住む人の心次第だとという意味で教えられることが多い生き方です。
 足葉山の生活では、水で苦労しましたが、そこには、井戸を掘ると、清らかな水がこんこんと湧き出ました

    橘曙覧                        藁屋前の歌碑          

藁屋前の歌碑は
膝いるるばかりもあらぬく艸屋(くさのや)を竹にとられて身をすぼめをりときざまれている。

この庵は、曙覧が亡くなるまで20年間清貧の中にあっても、こころ豊かに住んだ庵跡です。
             
筆者の 独楽吟 10首
     
たのしみは 山に登りて 握り飯 はじめひとひら ほほばりしとき
たのしみは 山の頂き めざすとき 一足ごとの 無私のひととき               
たのしみは 里山の道 ひそやかに おりおりに咲く 花めでるとき 
たのしみは 友とつどいて 里山で コロナ禍さけて 語るひととき
たのしみは コロナ禍避けて 散策で 風の優しさ 知らされる時
たのしみは 心に浮かぶ ねがいごと 思いとどめて 書き上げたとき
たのしみは さわやかな風 誘われて 妻と寄り添い 過ごすひととき
たのしみは 空晴れて    さそわれて コロナ禍さけて すごすひととき
たのしみは 奈良の古刹を 地図を見て 優しき仏 お会いするとき

駄作ですが、ことばに残すと心豊かな思いにさせられています。みなさまも
お読み下さい。 





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