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痛みを知っている我々だからこそできる事があるはず。 (悲しい出来事を未然に防ぐ為に)

神戸市の小学校で起きた教員のいじめ問題が話題です。

これに対して、植松努さんがブログでこの話題を取り上げています。

私もハラスメントの被害を受けた者のひとりとして、この問題には背を向けることができません。

植松さんの記事を引用しながら、この問題を考えていきます。

僕は、危険な人には、二種類あると思います。
(1)自信が無いので、自分以下をつくろうとする人
(2)他人が苦しんだり怯えたりする様子で快楽をおぼえる人

昨年、私を攻撃してきた人は、明らかに(2)でした。あくまでも私の感覚ですが、専門の医学的な治療が必要と感じました。

一方で、問題をすり替え、一連の出来事を無かったことにした人々は、(1)であり、自分の身を守る為に問題をすり替え、私を陥れたと考えられます。

パワハラやいじめを、暴行罪や傷害罪として考えるだけでは、
現在の状況を大きく変えることは難しいでしょう。

犯罪に対処するには、明らかな証拠が必要です。つまりその行為が実行され、確固たる証拠が掴めない限り、対処が出来ません。

罰を与える対処療法も重要だけど、
治療と教育による予防療法も重要だと思います。

企業には相談窓口の設置が義務付けられています。ただし、自分の経験から、ここへ相談(申告)するのはそれなりの勇気と覚悟がいります。

本当に自分の身は守られるのだろうか、そしてハラスメントだと認められなかったら余計に自分の立場が危うくなるのではないかという不安が拭いきれません。

仮にハラスメントだと認められ、加害者に処罰をが与えられたとしても、その事件はいったん解決するかもしれませんが根本的な解決には至りません。(そしてその後の加害者からの報復も心配です。)

その土壌が腐っている限り、腐った根がまた生えてきてしまいます。

私のケースで言えば、相談窓口には相談せず、組織の幹部に相談をあげ、組織の中での解決を望みましたが、残念ながらそれは叶いませんでした。

加害者が用意周到に手を回しており、幹部の方々が加害者の話を全て信じてしまったからでした。(「よかれと思って」、が認められてしまった。)結果、真実は暴かれず、問題をすり替えられました。

どうしたらこの手の悲しい事件の発生を未然に防ぐことができるでしょうか。

先日、私と同じような被害にあった人と出会い、この件について話し合っていました。

どうしても感情的には、加害者への怒りや憤りが先に来てしまいますが、話を進めるうちに、どうすれば未然に防ぐことが出来るのだろうかという議論になりました。

社内のオフィシャルな相談窓口は、訴えると腹をくくって申告をする窓口の位置付けであり、気軽に相談できる窓口ではない。

そして何より、明らかな証拠が掴めない限り、動いて貰えない。

なのであれば、もっと気軽に相談ができ、未遂のうちに当事者間に介入し、時にはその組織の長にも進言して、事件発生を防ぐために手を尽くす窓口の設置が必要なのではないかという議論になりました。

そしてなにより、その活動が出来るのは、被害者の気持ちが痛いほどよくわかる、我々こそがやるべきだとの結論に至りました。 

特に救うべきは、攻撃が長期化し被害者の精神的苦痛が長期にわたって続いてしまうこと、そして被害者が自分の至らなさの為に行為を受けているという誤った認識をもってしまうこと、この2点です。

いずれも自分で抱え込んでしまい、気付いた時にはかなりの精神的ダメージとなり、手遅れになりかねません。

これはひょっとしたらハラスメントなのではと思い始めた時や、苦しい思いをしているが周りに気軽に相談できる人がいない時など、真っ先に救い出してあげられる窓口としての機能を果たしたい。

そして冷静な第三者の目で事実を見極め、ハラスメントの疑いあり(または進展してしまう可能性あり)と判断できる場合は、その組織に介入し、適切な措置を施していくな

そんなチームの立ち上げに向けて動き出していこうと一致団結しました。

はじめは草の根的な活動からになるかもしれませんが、最終的には組織からのお墨付きを貰い、オフィシャルな相談窓口になる事を目指します。

痛みを知っているからこそできることを、我々はやっていきます。

   “「痛み」は誰もが避けたいものです。しかし、「痛み」を経験するからこそ、人の「痛み」を思いやる心、すなわち「利他の心」をもつことができるのです。そして、「利他の心」こそが私たちに「力」を与えてくれるのです。その意味で、「痛み」とは恵みなのかもしれません。
(『強く生きたいと願うあなたへ』 坂本光司 著 より)

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