何を成すべきか、否、何をしたいのか

私はこれまでの46年間の人生において、寝食を忘れる程に没頭して取り組んだ、という「対象」を持ったことが無い。
その様な対象に出会うべく、幼少の頃より数多の機会を頂き、様々な経験をさせて頂いて来た筈であるのだが、何もかもを中途半端にして来ているように感じる。

而(しこうして)、今、ふと完全なる独りきりの時間に置かれてみるとき、何事も私を衝き動かさない、ということに気付かされてしまっている。

私は『何を成す「べき」か』を考えるとき、その「べき論」からは、幾多の取り組みを想起することは可能である。そして、実際にその想定に基づいた取り組みを重ねて来てみて、結局は、「何故私が、この取り組みを成すのだろう」という原点に戻り着き、次の彷徨いに誘われて立ち去って来たのだと思う。

様々な考え方に触れる時、前述の様な状況は結局のところ、行動による物事とそれを鏡とした自分自身の「理解」と、「失敗」による学習と、ということに尽きる訳で、全く悲観すべきことではないし、むしろ「よくやって来ている」のではないか、とも感じる。

しかし、如何せん、結局「何をしたいのか」が分からないのだ。
沢山認めて頂いて、もう承認を欲求する感情も少なくなり、表面的な言葉で申せば「自己実現」ということなのだろうが、このもどかしさから逃れるためには、どうしたら良いのだろうか。

・・・といったことが頭の中に有り続けていて、これでは駄目だと思ったため、まずは、書き出して思考を整理するしか無いと思い立った次第である。

正直、こんな恥ずかしいことを晒してどうしようというのか、とも思うのだが、広い世の中には同じ様な思いに駆られている方々も在るであろうから、恥を忍んで書き綴ってみる。

嗚呼、娘たちと遊びたい。娘たちの成長に立ち会いたい。
2019年度、3年振り2度目の単身赴任生活という経験が、様々なことを浮き彫りにして行くのだろう。

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