見出し画像

【ポパー哲学入門 科学的・合理的なものの見方・考え方 高坂邦彦著】4

(第一章 ポパーの科学論)

3、探求の過程(推測と論駁)

認識のバケツ理論とサーチライト理論

 ヒュームの理論によれば、われわれが法則の認識をすることができるのは、類似の事象の反復によって規則性を期待する傾向がわれわれに生じるからなのである。つまり、自然そのものが、われわれに法則を与えるのである。われわれは、単にそれを受容するだけの、いわば空っぽのバケツのようなものなのだ。ポパーは、これを、いってみれば「バケツ理論」とでもいうべきものであるといって、次のように批判する。
 「この理論の起源は、なにごとかを知るためには、それ以前に、われわれはまず感覚的経験が必要である、というまことしやかな説にある。この説からは、次のような考えがおのずと生まれる。すなわち、われわれの知識は集積された知覚から成り立っているという素朴経験主義、あるいは、吸収され蓄蔵され分類された知覚から成り立つという、ベーコンによって支持された考え方である。」(『客観的知識』 P379)
 この考え方によれば、われわれの知識・理論・法則・信念・・・は、みなこのバケツの中に入っている。科学はわれわれ(=バケツ)の「持ち物」なのだ。ポパーによれば、これは「あどけないほど粗雑な誤った理論」である。
 ポパーはいう。われわれは、科学の「持ち主」ではなくて、科学を「行う者」なのである。「バケツ」ではなく、「サーチライト」なのだ。
単なる「受容器」ではなく、世界を理解しようとして、能動的に働きかける「探求者」なのである。世界それ自体が意味を持ってわれわれに何かを教えるというわけではなく、われわれが何らかの問題意識を持ち、能動的に「問いかける」ことによってのみ、認識が可能になるのである。(『客観的知識』P379~385)

 「一生を自然科学に捧げ、観察し得たすべてのことを記録し、帰納的証拠として使われるべく、その観察記録を王立学士院に寄贈しようとした人」がいるそうだが、残念ながら、その記録は何の役にもたたないことは誰の目にもあきらかであろう。
 生徒に対して、「目をよく開き、耳を澄ませて、感覚をとぎすまし、事実をよく観察しなさい」などと指示する教師がいるならば、即刻宗旨替えをしてもらわねばならない。これらの人々は、科学は観察から理論に進むという帰納法神話に毒されすぎている。一羽のスズメが餌をついばんでいる、という単純な光景さえ、無数の観点から無数の記述をすることができるだろう。なんらの色づけもない純粋な観察がありうるなどという信念は、あまりにもばかげているのだ。(『推測と反駁』P79)
 観察それ自体が、すでにある観点・関心・見方によってなされているのであり、それを持ちうるのは、われわれがすでに何らかの問いかけ・予断・理論を有しているからに他ならないのである。「科学は、いつでもどこでも理論を必要とし、用いており」、「理論の性格を持つ何ものもなしに、ことを始めるということはありえない」のである。
(『客観的知識』P381)
 
 この事実を、「科学においては・・・」と限定して考えることは、視野がまだ狭いというべきであろう。考えてみれば、これは、われわれの日常のありかたそのものなのである。金権主義者は金銭によって世の中を計り、教条主義者は、教条にあてはめて世界を解釈する。時には、彼らも情緒主義者や虚無主義者に変じて、その尺度で世の中を推し測ることもあるであろう。それぞれの者が、状況に応じて、それぞれの理論・尺度で世の中を解釈し、推し測り、期待をもって、さまざまな問題を解決しながらこの世に生きているのである。

理論の創造(推測・仮説)

誰しも、言葉を覚えたての幼児に、「どうしてなの?」「なぜなの?」と、「納得のいく説明」を求める質問を連発されて閉口した経験をもっているであろう。この世界が、納得のいくものであらねばならないという、いわば「規則性」を求めるわれわれの習性は、人間という動物が生得的に持っている欲求であり能力なのである。

(これは、ポパーの持論であるが、著名な動物学者ローレンツ〈Konrad Lorenz〉の理論と合致している事実は興味深い。ポパーには、ローレンツとの共著もある。(巻末の文献目録参照)  ついでながら、同じくノーベル賞受賞者であるエクルズ〈John.C.Eccles〉、モノー〈Jacques L.Monod〉等が、ポパーを指して、「あらゆる時代を通じて、匹敵する者のない偉大な科学理論家である」と高く評価し、彼らが理論を形成するにあたって、ポパーの理論がきわめて有効であったと言明している事実は注目すべきである。  エクルズは、金沢大学医学部での講演の冒頭、「まず、偉大な哲学者ポパーの思想を理解しなければならない。彼の考えがまさに私の信ずるものだからである」と述べて、ポパーの理論を解説することから、自身の神経生理学の講演をはじめた。(雑誌『科学』四四巻五号にその講演記録がある)。ポパーとの共著『自我と脳』もある。)


われわれは、今までの持ち合わせの理論で解決できないような困難な事態に直面すると、この習性(=規則性を求める精神の働き)によって、「理論の修正」を図ったり、新たな理論を「発明」「創造」することにかかるのである。すなわち、われわれの認識は、デカルト的直感によって「観る」ことや、ベーコン的経験で「入れる」ことによって成り立つものではなく、「具体的・現実的問題を発見し、それを解決する試み」、としての理論の「発明」によって成り立つものなのである。
 したがって、科学の方法についてもポパーは、「科学の実際の手続きは、問題の発生からはじまり、その問題を解決するような何らかの理論の創造に一足跳びに達するのである」という。(『推測と反駁』P91) 反復を経験するか否かということは勿論のこと、どのような段階をふむかなどということも、問題外のことである。この理論(推測・仮説)の創造ということは、「大胆なアイデア、未証明の予期、思索的な発想」によってなされ得るのであって、「科学的研究は、高度の想像力なしにはあり得ない」のである。
 そして、「理論を思いつき創造するこの過程を説明するような論理分析の作業は必要ないし、出来もしない」(『科学的発見の論理』上巻 P35)という。これをしようというのは、「バケツ理論」が持っている重大な誤解のためである。その誤解とは、正しい源泉を正しい経路で正しく消化すれば正しい認識が得られるはずだ、という考え方で、これは、認識の発生問題と認識の妥当性の問題を混同しているのである。
 正しい経験的事実のみが科学的認識の源泉であるという考えは、事実に反したあまりにも形式的な考え方というものであろう。われわれが理論を形成するに際しては、われわれの想像力をかきたてるありとあらゆるものが、動機となり、源泉となり得るのである。経験的事実のみならず、過去の理論、伝統、形而上学、神話、・・・そして誤解までもが源泉となり得たことは、科学史の教える事実ではないか。
 こうしたことを無視して、正しい認識の源泉とその経路は何かなどと思い悩み、発生のメカニズムを説明しようとするのは、実りのない無駄なことであるばかりでなく、「科学の進歩にとって危険で有害」でさえある。なぜなら、それは斬新な想像力や大胆な仮説構想力を貧困化させ、問題意識を欠いた無差別な調査主義や、創造的な発展を忘却した形式化・精密化作業に耽溺したり、もっともらしい事後解釈や、諸々の形の権威主義を生じることになるからである、とポパーはいう。認識の発生問題というものは、心理学や脳生理学にとっては重大な関心事であろうが、科学認識の妥当性の分析ということのためには何ら関係のないことなのである。

誤りの排除(反証・反駁)

われわれがなさねばならぬ肝腎なことは、豊かな創造力や推察力によって生まれた理論(仮説)が、妥当であるか否かを検討するという、認識の妥当性の問題なのである。問題から一足跳びに生まれたばかりの理論は、いわば、思いつきの域を出ない憶説にすぎないのであって、それは、事実をうまくいい当てているかもしれないが、いい当てていないかもしれないであろう。
 さて、われわれは通常、仮説から演繹される帰結と、実験・観察の事実との一致がみられれば、その仮説が、「検証」されたとか「実証」されたとかいい、その仮説を正しい理論・法則として昇格させる、という推論をやっているであろう。
 だが、これは本章二節で述べたとおり、一歩踏みとどまって考えてみればおかしなことなのである。仮説にもとづく演繹結果と実験結果が一致したということの持つ意味を、論理的に整理してみるならば、単に「このスワンは白い」という目の前の事実を確認したにすぎないのである。・・・それがどうして、「スワンというものは白い」、「すべてのスワンは白い」という理論にかわりうるのであろうか。すべてのスワンを調べたわけでもないのに「黒いスワンはいない」という保証はどこにあるというのであろうか。(黒いスワンはオーストラリアで発見された!)これは、たとえてみれば、血液型による親子関係の鑑定によって、自分と同じ血液型の他人がもうけた子どもなら、すべて自分と親子関係が存在するという断定をされてしまうようなものである。
 すなわち、「すべてのスワンは白い」(これを普遍命題といい、科学における理論・命題は常にこの性質を持つ)という命題は、「検証」したり「実証」しようとして実験・観察をいかようになそうとも、論理的にはその正当性を主張できない。つまり、理論が事実と一致しても、それは「普遍的真理」の証明にはならないのである。
 ならば、いかにして仮説の妥当性を確認するというのか。「帰納法をいかに正当化できるかという問題が解決できなければ、まともな科学理論と、狂人の妄想・たわごととの優劣を決めることさえできぬ、とはラッセルの言である。だがしかし、われわれは、帰納なしでやっていくことができるし、やらねばならぬし、現実にやっている」(『客観的知識』P11・P35)とポパーはいい、検証ならぬ反証によってそれを行っているとして、次のように説明する。
 「すべてのスワンは白い」ということは、「白くないスワンはいない」ということでもある。(これを非存在命題という。したがって、科学命題は非存在命題でもある。) どこかで、白くないスワンが発見されれば「白くないスワンはいない」という命題は否定される。つまり、最初の「すべてのスワンは白い」という命題は間違いである。・・このように、命題(理論)の否定なら、実験・観察によって絶対的に根拠を与えられる。これを、ポパーは反証(反駁)されるという。さきほどの血液型の例でいえば、血液型が同じだからとて親子関係があると断定することはできないが、違うなら親子関係がないという断定をすることができる。 
 要するに、理論(仮説)の肯定は事実をもってしてもできないが、否定なら事実を根拠として断言することができる、ということである。したがって、ある仮説を、事実に照らして順次に誤りを排除(反証)していくこと以外に仮説の妥当性を検討する道、真理を発見する道はないということなのである。その過程を経ても排除されないで持ちこたえている仮説は、それだけ妥当性の度合が高いのだ、ということになる。このような理論を、ポパーは、裏づけ(corroboration)された理論であるという。

(この訳語は統一されていない。確証 高島弘文、験証 森 博、裏づけ 内井惣七、・・・等々である。ちなみに、検証・実証は verification あるいは confirmation の訳語であり、ここでいう裏づけとは別の意味である。)


推測と反駁(P.1 → T.T → E.E → P.2 →・・・)

このように、裏づけされたにすぎない理論は、例えば、「今までに見たスワンはみな白かった。黒いスワンなんぞはまだ見たことはない。」というだけのことなのであるから、白くないスワンが発見されるまでの間は一応は妥当だといいうる暫定的なものでしかないということになる。「すべての法則や理論は、もはや疑い得ないと思われるときでさえ、暫定的・推測的・仮説的でしかない。・・・誤りや無知として摘発される可能性を原理的に持っているのである。」(『推測と反駁』P88)
 したがって、真理の探求過程は、とどまることのない『推測と誤謬排除(推測と反駁)』の繰り返しとなる。ポパーは、その過程を、

①問題の発生(problem 1)
   ↓ ②試験的理論(tentative theory)
        ↓ ③誤りの排除(error elimination)
            ↓ ④新たな問題の発生(problem 2)

という推測と反駁の無限の繰り返しであるといい、それを簡明に次のように模式化している。

          [P1 → TT → EE → P2]


つづく。
次回【4、独断的思考と科学的思考】




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?