「鬼滅の刃」の鬼たち

今朝は4時過ぎに目が覚めたのだが、足が攣る感じがあったので入浴し、もう一度寝たのだがあまり寝つかぬうちに目が覚めて、5時半ごろ起き出した。

今日は1日体調がいまいちだったのだけど、なんとなく「鬼滅の刃」を途中から読み始めたらラストまで読んでしまい、久々にマンガに没頭した感じになった。マンガはもともと自分の感性で読んでいるけれども、これほど話題になったマンガだと皆がいろいろ自分の読み方を披露しているので、読み直すときにそういえばこういうことを言ってる人がいたなとか思いながら読むので、少し新しい読み方ができた感じはする。

最近は忙しいので一度読んだ作品をじっくりと読み直すことがなかなかできずにいたので、今日はよかったなとは思ったが、それにしてもまとまった時間が容赦なく消費されてしまうので、もっと時間や場所に縛られないで済む働き方ができたら、もっといろいろなものをじっくりと読めるのになと思ったり。私も昔ならすでに定年を超えた年齢になっているので引退できればいいとは思うが、ほぼ自営のようなものなので働いて稼ぐしかなく、なかなか悠々自適というわけにはいかない。

まあやりたいことはたくさんあるのだが、時間がないのと体力がついてこないのが大きい。朝のうちはいろいろやる気もあるしアイディアも出るのだが、このくらいの時間になるとなかなか仕事も手につかない。気分を切り替えて少し諏訪湖畔に散歩に出かけ、どうせ何もできないならブログでも書こうと思いついて帰ってきて書いてるわけである。

改めて読み直してみるとお館様は16巻ですでに死んでいるので、残りの7巻全部が鬼舞辻無惨戦ということになる。実に話の3割が無残との戦い、もちろんその中には上弦の一、二、三、それに鳴女と獪岳との戦いも含まれているわけだが、ただこの全体が一つの戦いであることは言うまでもなく、「最後の戦い」がそれだけ長いと言うことになる。

だから最後の戦いが始まった時にはえ?もうすぐ終わり?と思ったものだが、それから単行本7巻分だから1年以上戦いが続いたわけで、そう言う意味ではそんなにすぐではなかった。また連載が終わってから単行本が出終わるまでに7ヶ月くらいかかっているからそう言う意味でもかなり長い戦いに感じたと言うこともあるんだろうと思う。

鬼にはいろいろいるし、どれも印象的な敵であるわけだが、それぞれが「家族への執着」「悪への心酔」「虐げられてきた恨み」「肥大した自我の怪物」「弱さへの開き直り」「強さへの囚われ」「要領の良さの怪物」「才能への焼けつくような憧憬」「生への執着」と言ったテーマを背負っていて、つまりは人間の持っている様々な要素が鬼として具現化した存在であり、その辺のところはある意味仏教的なものも感じる。鬼殺隊は皆鬼たちを憎んで戦うわけだが、炭治郎だけが彼らへの人間的な同情、共感のようなものを抱いていて、読者はそれに共感し、思い入れをすることができると言う構造もよくできていると思う。

だからそれぞれの鬼についての分析や批評もまたいろいろできると思うのだけど、自分が一番心にひっかかるのは上弦の一、「黒死牟」だなと思う。彼は人間だった時に鬼舞辻無惨を唯一追い詰めた繼国縁壱の兄であり、弟の才能に敵わないと言う焦燥から自ら鬼になって強さを追求し続けた。圧倒的な剣の才で四人を相手に戦い、無一郎と玄弥を倒すも刀身に映った自らの醜い姿に動揺し、倒されてしまう。

この辺りは「アマデウス」のサリエリのようでもあり、「山月記」の李徴のようでもあった。

物語の全体が見えない連載中は黒死牟と縁壱の区別がつかず、「始まりの呼吸」の剣士自体が黒死牟になったのかと思っていたが、途中で二人は別人(兄弟だが)とわかり、ようやくすっきりしたことを思い出した。

鬼との戦いはそう言う意味で自分との戦いのようでもあり、鬼の強さはそれぞれの囚われの強さでもあり、また鬼がやられることで自分も傷つく部分が常にあると言う、そう言う読み方ができる部分がある。まああまりそう言う方面に突っ込んでいくと活劇や割合単純な勧善懲悪劇としてのこのストーリーの魅力が重くなると言うか半減する部分もあるので、そう言う方面の分析はブームが去ってからにしようと思う。

と言うことでまだ語れる部分はいろいろあるのだが、今日はこんなところで。

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