価値観=自己理想像のアップデート、「古い理想の殻を破る」必要性を感じている。

7月3日(水)曇り

いろいろなことがあって、昨日も割合近い親戚に関する初めて聞く話を二つ聞いたのだが、もちろんそういうことはここには書けないので書かないのだけど、やはりいろいろ時は流れていくのだなと思う。

なんとなく思い立って今朝地元の神社で夏越しの祓いの茅の輪くぐりをやっていたことを思い出して、行ってみた。もう撤去されてるかなと思いながら行ったがまだあったので、8の字にめぐってさらに階段を登って拝殿で参拝した。やはり爽やかな感じになる。最近はどうも湿気が多く、家の中の例えばファックスの用紙がなんとなく湿気ている感じになっていて、東京ならともかく本来冷涼な長野県でもそうかという感じである。上半期の穢れを払い落とすことはできただろうか。

そういうわけでなかなか「ルックバック」の考察も深める余裕がないのが現状。というか文章を読み直してみるとかなり誤字や強引な展開が多くてもっとちゃんと見直さないといけないなと思うのだが、そういう余裕もない感じなので少ししばらくお見苦しいものをお見せする感じになりそうで申し訳なく思います。ある意味素材っぽいものを並べた感じにはなってしまっている。

今日考えていたことを少し書くと、自分が感じていた、あるいは感じている不安とか焦燥というものは、自分が無意識のうちに持ってきた真善美の理想というか、(本来の意味での)リベラルな読書人像みたいなものが自分自身が持っている「やりたいこと」や自分が置かれている状況のようなものに、つまり今の自分自身の「身の丈」に合わなくなっているからではないかという気がしてきている。

まあこれは本当はずっと合わなかった気もするのだが、おそらくはずっと高校くらいの頃、ないしもっと前くらいから荘子的な自己理想像みたいなものが無意識のうちにあって、竹林の七賢ではないが高等遊民的なものが無意識のうちにあったのかなという気がする。

一つの別の理想像というのは「大黒柱」というものもあるのだが、近い親戚に本物の大黒柱だった人がいるので、ああはできないなという感じがする。しかしその人ももう亡くなったので、まあ大きくも太くも黒くも柱でもないが、そういう自己理想像みたいなものができかけてはいるし、なんとなく頼ってくる人が増えた感じもあり、能力と見合わない部分が多すぎるが、そういう姿も原始されなくはない。

まあつまりは、無意識のうちの自分の理想像、「古い理想のカラを破る」必要があるのだなと思う。

それがどういうものなのかはまだよくわからないのだが、何をやるにしてもバイタリティ、生命力は必要だなと思う。

同い年の友人で退職後市会議員になっている人がいるのだが、毎朝雨の日も風の日も寒い日も暑い日も交差点に立って市民に呼びかけて、議会での活動も精力的にこなし、出張でしょっちゅういろいろな場所に出かけているだけでなく、休日には趣味の鉄道やバスの乗り倒しもやっていて、Facebookなどをみると感心するしかない。そんなタイプだと思っていなかったのだが、本当はすごくヴァイタリティのある人なんだなと感心している。

教養人という理想はあるが、それを社会活動に生かしていくのもまた一つの理想なんだろうと思う。価値観=自己理想像のアップデートが必要だなと思っているわけである。

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