デイヴィッド・ホックニーなど/身長の低い江戸時代日本人/アフリカのクーデタと2・26事件/若者(大衆)文化の中心は「歌(音楽)」から「アニメ」に移ったのではないか

9月18日(月・敬老の日)

今日は振替休日ではなくて、敬老の日だということに今気が付いた。月曜が休日になるのは同じだけれども、移動祝日の方が新しい(2003年制定、振り替え休日は1973年以降)のでつい振替休日だと思ってしまう。振り替え休日は私の小4の時にできたことになるが、それもなかった時代の記憶もあるのでそんなに昔からあったっけ、と思ってしまった。

昨日は朝9時ごろ実家を出ようと思っていたが結局9時半過ぎになり、高速に乗ったのが10時前。そんなに混んでないと思っていたけれども途中渋滞が工事渋滞も含め何度かあって結局家の近くの駐車場についたのが12時47分。いろいろやって落ち着いて昼ご飯を食べ始めたのは1時20分くらいだったか。思ったより時間がかかった。普段は途中4回くらいSAやPAによるのだが、昨日は境川と石川の2回しかよらなかった。

ただ調布過ぎたあたりからすでに渋滞していて、初台の山手トンネルへの分流までずっと混んでいた。それから中央環状線に入る三宅坂の合流で渋滞になったのは初めてだったのだが、これはよく考えてみれば起こり得ることなのでいままでなかったのが不思議かもしれない。そのほか韮崎・長坂のあたりで工事で1車線規制されていて、これは前回もあったからまあ仕方がないかなと思った。

双葉SAはいつも人が多いので避けて、境川PAが新しくなり弁当なども売るようになったので最近2回続けて境川に入っている。石川は首都高に入る前の最後のPAだからいつも必ず入っているのだが、昨日は永福や代々木にも少し入りたい気持ちもあったがまあ自宅まで我慢した。

家で少し休んだりしてから4時ごろだったか出かけた。あまり当てもなくてとりあえず神保町に出かけたのだが、途中でiPhoneを見て現代美術館でデイヴィッド・ホックニーの展覧会をやっていることを知る。あまりよく知らないが、現存作家で最高値で取引されたさっかだということで、現代でも評価されてるということは分かったので、見に行くと少し参考になるかもしれないと思う。

いろいろ回ったのだが中古レコードを見ていてフルトベングラーのワグナーを見つけて買おうと思ったのだが、盤面があまりにひどくて買うのをやめた。特に買うものないなあ、と思いながら東京堂で美術書を見ていたらデイヴィッド・ホックニーの「絵画の歴史 洞窟壁画からiPadまで」(青幻舎、増補普及版2023)があり、それなりに高かったけれども美術史上のかなりいろいろなものを取り上げていて、知らない絵も結構あったので買ってみることにした。文房堂で塩キャラメルのケーキを食べて、そのまま帰ることにし、地元でニトリの浄水器のフィルターと夕食にローソンのペペロンチーノを買って帰った。


昨日は何となくつぶやいたこのツイートが思いのほか反応があって驚いた。

もともと最近のフェミニスト等から、特に性的少数者とペドフィリアをめぐる問題からの派生だと思うのだが、低身長の女性を狙うのはペドフィリアでゆるされない、みたいな頭の悪いツイートをちらっと見たので日本人はもともと、特に江戸時代は低身長だった、ということを書いたのだが、かなり新鮮な驚きの人がいたらしく、時代も変わったんだなと思った。

こういうのは日本のアニメは小児性愛だ、みたいな暴論と結びつきやすいのできちんと批判して行かなければならないのだが、大人でも身長の低い人は女性もそうだが男性にもいるわけで、そういう人に対する差別につながるようなこうした言い方は全くよくない。フェミニストLGBT勢力はアメリカでもペドフィリアを排除するために宗教超保守と結びついたりして手段を択ばないが、こうした運動の仕方はいつか自分たち自身、あるいは人類全体の首を絞めることにつながるので、節度を持って発言すべきだと何度でも言わなければならないだろうと思う。


アフリカのコンゴ(ブラザヴィル)でクーデタがあったとの情報があり、調べてみたのだがどうもガセネタのようだった。まあそれはそれでよいのだが、アフリカはいまでもクーデタが起こりやすいことは確かで、大変だなあと思う。

原因はどういうことかと考えてみると、政治と軍事のバランスが悪い、というか政府が安定した国民の支持を得にくい状態なんだろうなあと思う。国民が十分食べているだけの適切な経済成長を促すだけの政治的・経済的インフラが未整備のまま、成果を上げようとして西側やロシアや中国に食い物にされたり、内部抗争で崩壊したりしている。軍人の中にも権力奪取の野望を持っている人たちが多いとかもあるのだろうかと思ったり。政権を握るなら政治家になるより軍人になる、みたいな感じで。

実際のところは、つまりはカリスマ的指導者が必要で、存在していない、というようなこともあるのだろうなと思う。また、モブツとかも潰されたし、独裁者は西側の受けが悪い。この辺、中東諸国なども含めて中国やロシアに支援を求めがちな理由の一端があるのだろう。

アフリカ諸国にとっては国家体制がロシアや中国の方が親和的なのだと思う。そして一から積み上げていく民主主義は難しいから、カリスマと軍事でとりあえず一国を制圧して統治する軍事政権の方が国の形をまとめやすいのも事実だろう。国境も必ずしも合理的根拠はないだろうし、必然的に多民族でまたイスラム原理主義の問題もある。そういう世界で、軍事と治安を担えるのが軍隊しかいない、だから軍隊に輿望が集まるということになるのだろう。

翻って我が国を考えてみると、クーデタと言えば二・二六事件である。

二・二六事件とかは青年将校が貧しい東北の農民を思って財閥に牛耳られた政府を倒す、みたいな意味合いもあったわけだけど、農民たちの側が政府より軍人に期待する、みたいなことは多少はあったのだろうか。そういう記録は見たことないけれども。国民の支持が期待できる、という思いがなければさすがにクーデタとか起こさないよなあと思う。確かに五・一五事件のあとでは犯人たちに対する減刑嘆願が殺到したということがあったから、青年将校たちも自分たちが支持されると勘違いした面もあったのかもしれない。

これは山上容疑者による安倍元総理暗殺事件でも同じだが、ある満たされない政治的欲求を持った人たちがテロリストを救世主のようにとらえ、熱烈な支持を表明することは時々ある。しかし実際には再度ことが起こっても天皇の強い一言でそうした動きは押さえられてしまったわけで、二階に上げられてはしごを外された状態になった。

もし農民が彼らを支持して死刑反対の争議などを起こしていたら何か起こっただろうかと思ったりもするのだが、そういうことは起こらなかったわけで、青年将校たちの行動は結局暴走ということで終わったのかなと思う。


YOASOBIが小説をもとにした楽曲を作成して受けているのが凄いという話があるが、実際にはそれは「音楽が若者文化の中心だった」時代の人の発想であり、今はJ-POPは「他から持って来た文脈」の上に乗っかって作られるものになった、というツイートがあって、いろいろと考えさせられた。

大衆文化、若者文化の中心は音楽ではない、ということかと考えてみても、自分も積極的に新しい音楽を聴かなくなって長いので、「若者文化の中心」がどこにあるのかはよくは分からないけど、「アニメ」が大きな中心であることは確かなんだろうな、とは思う。

アニメが若者文化の中心の一つだとすると、それはかならずしも「オタクが喜ぶ(とある種の人たちが思っている)アニメ」ではないのだろう。スタイリッシュだったり、そのアニメ自体がメディアミックスの中心になるようなもの。【推しの子】などはまさにそうだと思う。

逆にアニメがどうしてこれだけ国民的、あるいは若者文化の中心になり得たのか、と考えてみると、90年代にスタジオジブリアニメが一世を風靡し、歴代最高の興行記録を上げたりしたことは大きいだろう。ジブリアニメがある世代以下の共通言語になった。

そういうことがあったからこそ「ぼっち・ざ・ろっく」が流行ったからギターやる若者が増えた、ということだろうし、こういうことは昔だとちょっと考えられないなと思う。

ジブリのアニメには、「これを見れば日本が分かる、アニメを見れば社会が分かる」みたいな感覚があった。

そして、そのアンチテーゼとして「魔法少女まどか☆マギカ」とか、社会のあり方の昏さと少女個人の英雄的な意思による世界の救済、のような救済神話や、逆に日本がどうしてこうであるのかの源流を探ろうとする「君の名は。」みたいなのもそういう意味では同一文脈上で見られているのだと思う。これは「鬼滅の刃」で人のために戦うことの素晴らしさ、人を思う気持ちの強さのようなものが受けたのも、ジブリの文脈の延長線上にあったのだと思う。

逆に宮崎監督は「崖の上のポニョ」を最後に社会を描くことをやめてしまった。「風立ちぬ」は過去のファンタジーになってしまったし、「君たちはどう生きるか」は過去のファンタジーですらない、物語の王国の中の何かになってしまっている、ようには思うのだが。

きのう車を運転しながらNHK-FMの「伊集院光の百年ラジオ」を聞いていたのだが、1950-60年代に平均聴取率67%という化け物的な数字を叩き出した「三つの歌」という番組を流していた。これはヒントなしにイントロを聞いてその歌を歌う、という視聴者参加型番組で、三曲完全に歌えたら賞金2000円をもらえたという。

当時の大卒初任給が1万円行くか行かないかの時代だから、今の額に換算すれば5万円くらいの感じだろうか。NHKで賞金を出していたというのも驚くが、あまりの人気ぶりに地方で公開放送の際、偽物の興行がおこなわれて参加料を取って賞金を出したりしてたというのはすごい人気だったのだなと思う。

昨日の番組では言ってなかったと思うが、司会は宮田輝アナウンサーで、紅白でも名物司会者で全国区から参議院議員にもなったから、われわれより上の年代の人はなるほどと思うだろう。彼が不動の名声を上げたのはこの番組だったのかと知って驚いたり納得したりした。

こういう番組は「歌」とくに「歌謡曲」や「唱歌」が誰でも知っているもの、知っていても途中が怪しいから笑いが獲れる、「いーらーかーのなーみーとーふーふーふふふふふーん」みたいになるから笑えるということによって成立していたわけだから、明らかに「歌」ないし「音楽」が大衆文化の中心にあったわけだ。

今こう言う番組はなかなか成立しないだろう。特に歌謡曲ならともかく、ボーナス曲として「こいのぼり」とか「ひなまつり」が出てくるとみんな歌えるから安心して聞いていられたのだが、いまだと歌えない人もいるだろう。現在はすでに、国民の共通言語としての「老若男女が歌える歌」が失われてしまったのである。kれは教育改革の負の面だと思う。

国民的アニメと言ってももちろん宮崎アニメでも見てない人はいる。学校で上映するわけではないからだ。しかし、その力が大きいことに違いはない。

それについては心配なことがある。先に述べたように日本のアニメは小児性愛であるという言いがかりがあるということだ。

いまアニメがある勢力によって弾圧されるようなことがあると、国民的な共通文化に大きな打撃が与えられるのと同じことだ、という認識は持っていた方がいいと思う。

彼らの狙いがもともとそこにある可能性もある。日本の国民的なアイデンティティを奪おうという指向である。だから、関係者だけでなく学界もまた、表現の自由を守ることにもっとちゃんと取り組んだ方がいいと思う。今表現の自由を侵害・弾圧しようとしているのは国家権力、政治権力ではなく、もっと国際的な広がりを持つナニカなのである。

今のフェミニズムやポリコレ、LGBT思想にはキリスト教超保守派的な画像・映像表現に対する強烈な敵意みたいなものが強く浸透してきてしまっている感じがする。21世紀におけるヴァンダリズムというべきだろう。アメリカのティーン向け、女性向けの文化はフェミニズムの厚塗りの下で窒息しつつあるようだ。そんなことが日本では起きてほしくない。

彼らのやってることはイコノクラスムなんだよなあと思う。「イコノクラスム=偶像破壊」の項、日本のウィキペディアは近代のそれは書いてないが、英語のWikipediaには2020年のBLMによる建国の父たちの彫像への攻撃まで書いてある。フェミニズムによる攻撃は日本でも強いので、ウィキペディアにも載せたらいいのではないだろうかと思う。

https://en.wikipedia.org/wiki/Iconoclasm#Political_iconoclasm

話しが長くなったうえにとりとめがないが、とりあえずこんなところで。

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