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そばにいてほしい

 邦楽を聴いていても、洋楽を聴いていても、歌詞や曲名に「そばにいてほしい」という言葉が使われることは多い。そして、洋・邦の歌詞の互いを翻訳し、そのそれぞれの言語圏の人々に歌っていることを読み聞かせてみても、「そばにいてほしい」という言葉が指しているイメージは了解可能である。「そばにいてほしい」という感覚はどうやら万国共通のものらしい。

 人間が一人では生きられないことが事実だとしても、自分以外の誰か・何者かが「そばにいてほしい」というこの感覚を時として持ち、その言葉の響きやイメージ、その言葉にこびりつく価値観に寄りかかってしまいたくなるのはなぜだろうか。また、その言葉の中身の部分、要するに自分以外の何者かが「そばにいる」状態や状況を、なぜ僕らは欲し、それが達成されれば安心できると思うのか。なぜ、「そばにいる」ことに一種の包まれた感覚を抱くのか。

 そもそも、「そばにいてほしい」という感覚は何なのか。どのように、そのまとまったイメージは生まれてくるのか。

 他人から客観的にみても、人に恵まれており、人のつながりや満たされ具合に何の不自由もないように見える者でも、実はその当の本人は強く孤独感や寂寥感を抱いていることなんてざらにある。
 反対に、他人からみれば周りに誰もおらず、ひどく孤独に見える者でも、当事者たるその本人はすごく満たされた感覚を持っており、なんの孤独も寂しさも抱えていないということだってありふれた話である。

 「そばにいてほしい」ものが、「どこどこのだれだれ」といったように、個々具体的な人間だけを指し示しているとは限らない。ペットの猫や金魚であることもあれば、ぬいぐるみの可能性だってあるし、場合によっては家電に、そのような感覚を抱くことだってあるかもしれない。
 物質的な存在に限らず、目に見えないもの、たとえば映画『her / 世界でひとつの彼女』に登場する声だけの女性や、神のような精神的な存在が「そばにいてほしい」対象となり、それに対して “やさしさに包まれた” 感覚を抱くことも可能なはずである。

 それは、現事実的に何者かが「そばにいる」ことを意味するだけではなく、「不在」であっても、その存在を強く信じられる、ということが作用している。
 かつても現在もこれからも、そばにいる誰か(何か)と共につくり出す時間は本物で、それは今の自分の糧になっており、同時にその誰か(何か)のそばに僕はいるのだという確信(自分のそばに誰かがいて安心する感覚を、その誰かも同じように持っているという感覚)を持てるということでもある。
 その「自分」と「他者」の役割や立場が反転する可能性と、そばにいるのは世界でたった一人(一つ)の具体的な「私」と「あなた」であるという代替不可能性。この狭間を僕らは揺れ動き、この狭間を生きている。

 確かに、誰かや何かがそばにいることを信じられるあいだは、僕らのテンションは高く保たれており、簡単なことでは倒れないような気でいられる。しかし、テンションが高く保たれているということは、決して衰え知らずということを意味しない。常にそのテンションは揺らいでいるし、永遠に持続するわけではなく、必ず自分の着地点を見つけずにはいられなくなる。

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