「文化資本の底上げ」について僕が思うこと

 宮崎の文化資本の底上げを行う。

 これは僕が宮崎に帰ってきてから少しずつ思いはじめたことであり、また仕事やその他活動をするうえで常に頭の片隅にあるものです。文化資本の底上げというと、文化的なものに触れましょう、本をたくさん読みましょう、映画を観ましょう、音楽に触れましょう、アートを大事にしましょう、ファッションセンス磨きましょう、サブカルチャーに被れましょう、とそんな感じのことをイメージすると思う。

 僕がここでしたいのはそんな話ではなく。もちろん、先にあげたことは僕自身関心のあることだし、好きなことであるから、その良さを周りの人々に伝えたいと思っている。全国的にみて宮崎の人は文化的なものに触れる機会が少なく、興味関心も低い方だとされているので。
 
 しかし、僕がここで語りたいことはそういうことではない。僕の言う「文化資本の底上げ」とは、人としての熟成度をあげるというか、アップデートしていくというか、今までとはちょっと違う宮崎人になりましょうよ、ということであり同時に、そういう人を育てていきましょうよ、ということを言いたいのです。

 べつに躁的で押しつけがましい啓発とか啓蒙をしたいわけではなく。べつにみんな頭がよくなって、みんなエリートになってとかインテリになれとかいうわけでもない。みんな国公立大学とか早稲田・慶應・上智に行けるような頭をもてということでもない。

 そうではなく、ちょっと考えるクセがつくといいなというか。

 ちょっといつもと違う考えができるとか、ちょっといつもと違うものに触れるとか、いつもと違う風景に気づくとか、人の話に耳を傾けられるようになるとか。そんなささいなことなんです。ちょっと身体のセンサーが「ん?」って反応しやすくなるというか。そんなささいなことができるようになれるといいなと思っています。それが僕の言うアップデート。

 当事者意識をもつというと少し強すぎるのだけれど、ジブンゴトとして物事をとらえられるようになるというか、自分の関心のあることを深く掘っていくような、自分にとって親しみのあるものが、どういう文脈やストーリーをもってして自分のもとにあるのかっていうのを知る作業ってとても大事だと思うのです。

 たとえば、先の「文化的なもの」のイメージからはずれそうな食とか農業の文脈で考えると、ある作物はどのような土地が起源で、どのような気候に適していて、どのように育てられて、どのようにして市場に出て、どのようにして僕らの手元に届いて、どのように調理されて口へと運ばれていくのか。そして、その一連の流れのなかにどのような人や物の関わりが生まれるのか。その繰り返しによってどのような文化がつくられていくのか。そこまで想像力を張り巡らさなくても、少しだけ想像を向こう側にとばすだけで気づかなかったものが見えてくる。

 僕、宮崎は「陸の孤島」でもいいと思っています。「陸の孤島」は交通の便の悪さや宮崎の経済・文化的土壌に対する蔑称で使われるもので、われわれ宮崎人も自虐ネタにしていることだけれど、ガラパゴス諸島よろしく全国的に「主流」ではない独自の生態系と発展をもってもいいと思うんです。もちろんポジティブな方向で。それこそ、なにかとモデルにあげられるポートランドのような、モータリゼーション全盛だったアメリカ国内の動きと全く逆のことをして都市を構築した結果、世界的に稀にみる自治とクリエイティビティさをほこる文化が育まれたように。

 そういう風にある意味での自立(自律)ができるように、「ささいなこと」ができるようになるといいと思っています。でも、そんなささいなことを行うのが、実はものすごく難しくて体力のいることだってことも分かっています。
 
 だからこそ、普段から自分と関わりのあるもの、自分が親しみを感じているものに少しだけ想像を投げ込んでみる。入り方はなんでもいいと思う。本でもいい、コーヒーでもいい、ダンスでもいい、カレーライスだっていい。そうすると見えていなかったものが見えて、物事のつながり、関係性が分かってくる。それが新たな興味関心へとつながっていく。そうやって多くの個人がささいな変化をもち、その個人たちがほかの個人たちと交流をもつことによって文化をつくり育んでいく。実はそれが結果的に、冒頭であげたような文化的なものに触れるきっかけを増やし、文化資本を鍛えることにつながると思うのです。

 もちろん、みんながみんな変化できるわけではない。できない人だっている。その視点を大事にして自分も変化していきたい。少しずつ、少しずつ。

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