映画「象は静かに座っている」の感想

どうしてこの映画を見ようと思ったか、今となっては思い出せない。

しかもこれ、まだ準新作なのである。

どうして借りてまで見たのだろう。


それはともかく映画「象は静かに座っている」見ました。

ネタバレ掠りつつ感想を語ります。


まず、自分はこの映画に対して、何故ここまで賞賛されているのか疑問に思った。
感想を調べて見ると、絶賛する感想が多数。それと少しの低評価。
どの感想を読んでもあまりピンとこない。


おそらく映画館で見るのと自宅で見るのではまるで感想が違うのではないか。
それくらい、この映画はあまり家などで見ることが向いていない映画だと感じた。

『かつては炭鉱業で隆盛しながらも、今では廃れてしまった中国の小さな田舎町。友達をかばった少年ブーは、町で幅を利かせているチェンの弟で不良の同級生シュアイをあやまって階段から突き落としてしまう。チェンたちに追われて町を出ようとするブーは、友人のリンや近所の老人ジンも巻き込んでいく。それぞれが事情を抱える4人は、2300キロ離れた先にある満州里にいるという、1日中ただ座り続けている奇妙な象の存在にわずかな希望を求めて歩き出す。』

というあらすじだけで、映画本編の実に三時間半を占めているこの映画は、徹底して現実的に撮られている上、映画内の時間軸は一日しか経過しない。カットは少なく長回しの場面もあり、派手な演出などまずありえない。
徹頭徹尾、地味に撮られた『うだつが上がらない、変化の無い無限の日常』を一日という尺で、わざわざ四人もの主要人物を通して描かれている。
彼らの会話も非常に地味で、間を多用しているため映画館などの集中して見れる環境で鑑賞しない限り飽きてしまうだろうと感じ、自分もそう思った。

また、飽きてしまう原因として『上手くいかない現状に対する諦観』などを抱く登場人物たちを映すにしては、その説明としての尺を取り過ぎているし、映画として時間が進んだからと言ってそれらに変化が訪れることは無い。
そして、同じような登場人物を同時に何人も群像劇的に映しているが、描写されている物が変わっているだけで、根幹にある『諦観』や『やるせなさ』、『怒り』のような物には些細な変化しかなく、繰り返し同じものを永遠と見せられているような気分を味わった。

しかし、クライマックス向かって話が進み始めると、それらに意味があるように思える場面があった。

彼らは前述した『現状』から逃げ出し、自分の知らない遠い世界に希望を見出して歩き出した。

最初、自分は監督が徹底した地味な撮り方で、現実的な映画を作り、世界に小さな世界の現実を伝えようとしていたのかと考えていた。
しかし、この場面を考えているうちに、そうではないと思うようになった。

それは、街にも他人にも自分自身にも希望を持たずに、自分の小さな世界から遠くに踏み出せば希望があるに違いないという残酷な信仰に縋っているように見えたからだ。
だが、少し考えて見るとそれは『うだつの上がらない現状』から逃げるための理由が、ふと目の前にぶら下がってきたから『遠い世界に見出した希望』という名前を付けてそれに向かって逃げ出しただけとも思えた。
そして、彼ら自身が気づきながらも目を逸らしている現実はその世界に辿り着いた時にまた目の前に現れるのだと。

実際、それに近い答えを老人が語るシーンがあったように思う。

それでも、彼らは希望という名前を付けた『遠い世界の現実』に向かって進み、映画はエンディングへと向かっていった。

最後のシーンで象が嘶いた時、自分にはこの映画の題名が物語っていることを感じたように思う。

それは『静かに座っているしかない象』もまた『どうしようもない現実』に対して怒り、諦観している主人公たちと変わらない存在だったのではないか、ということ。

それにしたって、尺を取り過ぎると思うが、どうして監督がここまでしたのかは永遠の謎になってしまったようで、そこが何ともやるせない。

この映画に何もかもを詰め込んだのだろうか。

詰め込めて監督は満足したのだろうか。

それとも、辿り着いた先にも『どうしようもない現実』しかなかったのだろうか。

自分にはわからない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?