母の誕生日に思う事
12月15日は母の90歳の誕生日である。
これは戸籍上の生年月日。
戦前、祖父は開拓民としてフィリピンのミンダナオ島ダバオに渡った。
叔父と母はフィリピンで生まれたのです。
祖父は生まれた子供を日本国籍にする為、出生届を大使館まで出しに行ったので、生まれてから1ヶ月程遅れて登録された為、正確な生年月日は不明なんです。
祖母は、異国にいる男性に嫁ぐ事になった。
多分、祖母は何か問題を起こして地元に居られなくなったのではないかと思う。
ちょっとした地主の娘だったのに、会ったこともない開拓民に嫁ぐ事になったのは不自然だから。
当時、ダバオには日本人村があり、開拓して麻の栽培をしていたらしい。
勿論、みんな裸足で…
祖母はお嬢様だったので、祖父に靴を履かせろと我儘を言って靴を履かせてもらっていた。
それなのに、2人の子供を産んで数年した時
「こんな生活は嫌だ!」
と、離婚して子供を連れ日本に帰ってしまう。
帰ったものの、子供を抱えて生きて行く事ができないと思った祖母は、親戚に子供を預けて失踪してしまう。
叔父と母はバラバラに親戚をたらい回しに…
親戚も困ったんだろうね。
ご主人を亡くされた人を後添いに決めて、叔父と母は再びフィリピンの祖父の元へ渡りました。
着くなり、荷物を全て置き引きに盗まれたそうです。
その後、戦争が始まり終戦まで帰る事はできませんでした。
戦争中は、アメリカ軍から逃げ、日本軍からも逃げ、土地のフィリピン人からも逃げてなくてはならず、ジャングルの中を逃げ回っていたそうです。
日本軍に捕まると、女子供は大変な事になるから絶対に見つからないように!
と言われていたそうです。
8月に飛行機から「戦争は終わった。出て来なさい。」と日本語で書いてあるビラが撒かれたそうです。
しかし、罠だから出て行ったら駄目だ。
と、ジャングルから出て行かなかったそうです。
そのうち、疲労と栄養不足で伝染病に倒れ、バタバタ死んでいく。
継母が亡くなり、継母が産んだ赤ん坊も亡くなり、祖父まで亡くなり…
残った母たちは、このままならどうせ死ぬのだから、とジャングルから出て行った。
アメリカ軍に保護され、食べ物をくれた。
もう12月になっていたそうです。
大半の引き上げ者はもう日本に帰ってしまっていて、母たち大きな筏に乗せられて日本に帰る事になった。
長崎に着くまでにマラリアなどで死んでしまった人も多く、死んだ人は海に流されたそうです。
母も高熱が続き危なかったそうですが、長崎に着くまで間に合ったので助かったのだと。
親戚を頼り福島の二本松に引き上げた叔父と母。
これだけの苦労を共にしたからか、叔父と母はとても仲が良かったです。
叔父は下駄屋で働き、母は洋裁の学校に行きながら働き始めたそうです。
フィリピンで亡くなった母たちの継母は、祖父の元へ渡る時に1番小さな子だけ連れ、上の娘は親戚に預け日本に置いて行っていたのです。
叔父は、福島に引き上げて来て暫くしてから親戚が、年頃も丁度良いし継母が日本に置いて行った娘を嫁にどうだ?
ってなったらしく、血の繋がりもないので結婚したんだって。
その叔母は、やはり親戚に預けられて育ち苦労していたから、叔父と叔母は労わり合い本当に仲良しでした。
母は、結婚するつもりが無かったので、東京に出て洋裁店で働き始める事にしました。
東京にいた遠い遠い親戚が引っ越しを手伝ってくれたのですが、その人が人懐っこい人だったそうで、そのまま居ついてしまったんだとか。
その人が、私の父です(笑)
叔母は東北の震災の半年前ぐらいに亡くなり、叔父も3年前に亡くなりました。
父が亡くなって7年になりますが、私としては叔父が亡くなった時の方がダメージが強かったですね。叔父と叔母が大好きでした。
私は東京生まれ東京育ちですが、叔父が福島の二本松に住んでいたので、二本松が第二の故郷のように感じています。
今回これを書いてみて
昔は、とにかく親戚を頼りにしていたんだなぁ〜と、殆ど血縁関係がないような遠い親戚まで頼って生きていたんだと思いました。
私が生まれた頃、叔父と母を捨てた祖母が見つかり、意外にも同じ西武新宿線沿線に再婚相手と2人で暮らしていたのです。
母は、孫の顔は見たいだろうからと、兄や私を連れて訪れていました。
祖母の足は、フィリピンで足に合わない靴を履いていた為、見事な外反母趾でした。
毎年、夏に戦争絡みの特番などが放送されますが、母は「この頃はまだジャングルを裸足で逃げ回ってた」と言います。
母の終戦は12月なんです。
母は、女も1人で生きられるように、手に職をつけなさいと。
美容師になった私は、1度結婚したけど5年ぐらいで別れてしまい、子供を産む機会に恵まれませんでした。
兄は1度も結婚しないまま病気になってしまい、義足生活となりました。
孫の顔を見せてあげられなくて、ごめんなさい。
ここ数年働いていたチェーン店の美容室、残業代が未払いだったり色々あったそんな時に、若い頃に働いていた店が3月で閉店すると聞き、思い切って自分でやろうかな…
ほぼ日の学校が「ダーウィン」だから、ぜひ受講したい!
自分のお店なら、定休日を水曜日にすれば良いじゃない(笑)
そんな気持ちが届いたのか、抽選に当たり受講できる事に!
って事で、前職を5月で退職し準備に入り、バタバタと7月に開店しました。
6月は土日も動ける状況だったるから、NIWAKAラグビーも観に行かれました。
「あなたは独居老人になるんだし、貯金が0になってしまってどうするの?」
まだまだ母に心配をかけてる娘を許して下さい。
と思いながら、昨夜は店の閉店後にチラシをポスティングして歩いてました。
愛玩動物飼養管理士の認定試験の合格通知が届いたので、証明書が届いてから毎年受けるセミナーを受け管理責任者の認定を受けてから、保健所の立ち入り検査。
そしたらやっと、卵を孵卵器で孵したウズラの梅吉をお店で飼う事ができます。
御吉兆!
梅吉が吉を呼んでくれると信じてます✌️
今日はケーキを買って、実家に寄ってから帰ろうっと。
PS
残念ながら2022年4月末で閉店しました。
コロナがなかったらなぁ〜
現在は持病の乾癬の治療に専念しております。
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