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なぜモラハラ夫と結婚してしまったのか?答えは自分の生い立ちにあるのかもしれない
初めまして、コウです。私が結婚した相手はモラハラ夫でした。
幸せになりたくて結婚したはずが、とても辛い結婚生活でした。
なぜ私はモラハラ夫と結婚してしまったのか?答えは自分の生い立ちにある気がします。
自己紹介を兼ねて、私の生い立ちを振り返ってみたいと思います。
幼少期の孤独と「おりこうさん」の刷り込み
共働きの父と母との間に一人っ子として生まれました。一人っ子だったのでとても大事にされてきました。産前産後の母の育児日記はとても細かく書かれていました。
ミルクをいつ何cc飲んだか、体重・身長と細かすぎるぐらい細かく書いてありました。産まれたときからの写真もたくさんあり、アルバムは数十冊もありました。
ですが、大切にされているはずなのに、でもどこかで「私は必要ない子なんじゃないか?」と思っていました。そう思う出来事があったからかもしれません。
私がおそらく、3歳、4歳の頃だと思います。ある日、母が仕事のためにひとりで海外出張へ行きました。父も仕事があるため、私は家に帰ることはなく託児所に泊まりで預けられました。
当時保育園にはまだ入園していなかったのだと思います。
5日間だったのか、1週間だったのかはたまた2週間だったのか・・・何日間預けられていたのかは覚えていませんが、とてつもなく長く感じました。
お友達は毎日パパやママがお迎えに来ます。毎日毎日、帰れないのは私だけ。
「今日はきっと迎えに来る!」
お迎え時間が近づくと、ドアを見つめていました。
でもドアから入ってくるのは、お友達のパパやママ。
違う・・・また違う・・・今度こそ・・・
そんな日が何日も何日も続きました。私捨てられたのかな?もしかして何か悪い事したのかな?何がいけなかったの?もっともっとおりこうさんにならないとなの?小さな私は色々考えていました。
今日はお迎えにくるのかな・・・
毎日毎日お迎え時間になると不安で押しつぶされそうでした。
このことがきっかけかはわかりません。でも、1人になるのは怖い。考えなくても良いこと、気にしなくてもよいことまで考えどんどん不安になるようになっていました。
そして捨てられないように、1人にならないように、「いい子」でいようと思いました。
保育園に入るまで、母は仕事場に私を連れて行っていました。近くに祖父母がいたわけでもなく、周りに頼る人もいなかったので、やむを得ず連れていくしかなかったのだと思います。
母から言われたのかは覚えていませんが、私は幼心に「みんなに迷惑をかけてはいけない。」と思っていたので、母が仕事の間は、お絵描きをしたりして「おりこうさん」にしていました。
母にとっては私はおとなしくて、扱いやすい子どもだったと思います。みんなから「おりこうさんね」と言われたので私は「おとなしくしていることが正解」と思っていたのです。
やっと保育園に空きがでたようで、私は年少の途中から保育園に入園しました。
保育園での思い出はというと、好き嫌いが多くて泣きながら居残りさせられ給食を食べたり、車酔いが激しくお迎えが車の時には必ず嘔吐してたり、眠くないのに寝なきゃけないお昼寝が苦痛で仕方なかったり・・・・とあまり良い思い出はありません。
保育園入園まで、おとなしくしていることが正解だったので、あまり自己主張をする子ではなかったと思います。
保育園でのエピソードで今でも良く覚えていることがありあます。卒園前に「おとなになったら」というテーマで絵を描かなければなりませんでした。
私は保育園児にして特になりたいものもなく、となりのお友達のまねをして「ほいくえんのせんせい」と絵をかいていました。普通ならケーキ屋さんになりたい!とか美容師さんになりたい!とか夢があるはずなのに、自己主張が苦手な私は、となりのお友達を真似することが精一杯だったんだと思います。
そんな自己主張が苦手な子供でしたが、スイミングスクールの見学に行ったその日にやりたい!と言って入会したのを覚えています。
スイミングは保育園から高校生まで続けました。本当に泳ぐことが大好きでした。練習が厳しいこともありましたがプールに入れば気持ちがすっきりしました。無心で泳げば嫌なことも忘れられていたのかもしれません。
ですが小学生の時、大好きなスイミングに行けなくなってしまう怪我をしてしまいました。2回も足を骨折してしまい、1年以上はスイミングに行けなかったと思います。
この頃、父と母の関係はあまり良くなく、家の中の雰囲気は暗い感じでした。そんな時こそ泳ぎに行きたかったのに、骨折のせいで泳ぐことができませんでした。
ただ、骨折はしていても学校には毎日通っていました。学校は楽しかった記憶があります。転校生のあの子がくるまでは・・・
転校してきたばかりの彼女は、ストレスがたまっていたのか、骨折してみんなと同じように活動できない私に、嫌がらせをするようになりました。
「なんであんただけ楽してる?」骨折して足が不自由な私に容赦ない攻撃をしてきました。乱暴な彼女にクラスメイトは反論するどころかみんな味方になっていました。
ある日、私の上履きを隠されました。次はリコーダーを隠されました。その次は教科書がゴミ箱に捨ててありました。
そんな嫌がらせを受けていることを、親には言わなかったと思います。仕事で忙しいにも関わらず、骨折している私の学校の送り迎えがあったり、通院があったりとただでさえ迷惑をかけているのに、「おりこうさん」が正解のわたしにとって、「わたしが我慢すればいい」と思ってしまったのだと思います。
私はそれでも不登校にはならず、学校に行っていました。学校を休むという概念がなかったのだと思います。
この2回の骨折のおかげで、大好きなスイミングを休まなくてはいけないし、学校も家の中も居心地が悪かったと記憶しています。
両親の離婚と中学受験の挫折
なんとなく不仲だった両親ですが、小学校高学年のある日を境に父は家に帰ってこなくなりました。父は優しい人でした。大好きな父がいなくなったことは、ショックすぎてよく覚えていません。
その後、離婚したと母から言われました。両親の離婚・・・説明もなく突然消えた父。いなくなった理由を何も言わない母。私の頭も心もぐちゃぐちゃでした。泣いていたのかも覚えていません。
離婚理由は大人になってから聞きました。父の借金が原因だったようです。
母はとても教育熱心でした。私を「ちゃんとした子」に育てたかったのでしょう。父親がいなくても「ちゃんとした子」母も一生懸命だったと思います。自分が親になった今なら、それも理解できます。
でも小さい頃から「おりこうさん」でいることが正解の私は、両親の離婚があってもグレることも、荒れることもありませんでした。
シングルマザーで子どもを育てていくのは大変だったと思うのですが、私は中学受験することになり、塾に通いはじめました。塾での勉強はとても楽しく、電車での通塾も全く苦ではありませんでした。
ですが、受験で嫌な思いをしました。第一希望の学校の集団面接で、「お父さんは?」と聞かれました。忘れかけていた嫌な気持ち。みんなの前で、「母は離婚したので、父はいません」と言いました。屈辱でした。
最悪じゃん…
はずかしい
くやしい
なんで?なんで?
みんなの前で言わなくちゃいけないこと?
当時は離婚なんてまだまだ珍しかったと思います。第一志望の学校は不合格でした。ほかにも数校受けましたが、ぜんぶ不合格・・・
あんなに勉強したのに!
あんなにがんばったのに!
塾の先生も大丈夫って言ってのに。
親の離婚のせいで私は落ちたんだ。
父親がいないからだ。
私は全部母のせいにしました。最低です・・・そして、そんな風に思う自分が嫌いになっていきました。
自己肯定感も下がりまくりでした。自分の全てが嫌いでした。自分のいる環境も嫌いになりました。
中学受験に失敗した私は、小学校の友達と同じ中学に行きたくないというつまらないプライドで違う学区の中学校へ入学しました。今思うとリセットしたかったのかもしれません。
中学で始まった英語の授業。小学生の頃、英会話教室に通っていたこともあり教科として勉強するのも新鮮でした。
中学1年生の担任は英語の先生でした。授業がとても楽しかったのを覚えています。カーペンターズの歌を使って、わかりやすく文法を説明してくれたり、授業時間があまれば、トップガンやバックトゥザフューチャーなどのハリウッド映画を見せてくれたりしました。
そこで触れた「アメリカ」や「英語」に私はあこがれを抱きました。とにかくアメリカ行きたい!と思っていました。
同級生にアメリカで生まれの子がいたんですが、「20歳になったら、国籍選べるのと彼女が言っていたのがうらやましくてしょうがなかったんです。
彼女は教えてくれました。「アメリカの永住権は抽選だよ」と。抽選!?抽選でアメリカ人になれるの!?
無知な中学生の私はアメリカ人になる!とグリーンカードの資料をどうにかして取り寄せていました。こういう行動力はあるみたいです。
洋楽を聞きいたり、洋画をみたり、SCREENというハリウッドスターの雑誌も読んでいました。妄想はどんどん広がって、アメリカ人と結婚してハーフの子を産むんだ!って本気で思ってました。
今思えば、私はアメリカに逃げたかったのかも知れません。
そんなアメリカに憧れを抱いている中学生活を送っているある日、学校から家に帰ると、玄関に男物の靴がありました。なんとそこにいたのは父・・・
突然いなくなった父。母は連絡を取っていた?なんでいる?
パタン・・・
訳が分からずそのままドアを閉めました。そのあとどうしたのか?どう家に戻ったのか?母を問い詰めたのか?全く覚えていません・・・
そんなことがあっても、小さい頃から「おりこうさん」が正解だった私は、グレることもなく、超真面目に学校にも部活にも行ってました。グレる勇気もなかったんでしょうね。
将来へのワクワク感や楽しい気持ちを持つとどん底に落とされる、とその時実感した気がします。ますます感情を表に出すことも自己主張も苦手になっていました。
高校、大学では「クールだよね~」とよく言われるようになりました。ぜんぜんうれしくない誉め言葉でした。
金髪にでもなっておけば、もう少し感情表現も上手くなってったかもしれません。でもそんな勇気もありませんでした。幼少期から「おりこうさん」でいなくてはと無意識のうちに刷り込まれていたのだと思います。
私には兄弟姉妹がいなかったのと、離婚したことで父がいなくなり、「両親と子どもが2、3人いる家庭」がいつしか理想になっていました。
「幸せな結婚がしたい!」が目的になったのです。早く結婚して若いママになりたい!それが憧れになっていました。
モラハラ夫との結婚とその苦悩
大学生になり、いろいろな人と関わることで、活動する世界も視野も広くなりました。「おりこうさん」でいなくては、と思う一方で、母から逃れたいという気持ちもあったと思います。
そんな時に出会ったのが、モラ夫でした。同い年でしたが、優しいし、デート代はいつも出してくれる、いい意味で今まで出会ってきた人とは何か違うと思いました。
ただ、付き合っている頃から違和感はありました。突然不機嫌になるんです。理由はわかりません。話しかけてもだんまり。でも、優しいところもある。男らしいところもある。と半ば自分に言い聞かせてました。本当は優しい人なんだって。
母から逃れたい、家を出たいという気持ちも大きかったのもあり、地方出身のモラ夫の地元に行くことを決心してしまいました。
それが悪夢の始まりだとも知らずに・・・・
付き合っていた頃から、突然不機嫌になるはありましたが、結婚当初はもちろんモラ夫ではなく普通の夫でした。義母からの嫌がらせからも守ってくれました。
ですが、第一子妊娠出産、第二子妊娠出産、マイホーム購入、・・・・年月を経ていくごとに、
・無視
・暴言
・暴力
がひどくなりました。なぜ始まるのか理由もわからず、地雷がどこにあるかわかりません。
反論するのも怖いので、「私さえ我慢すればいい」そう思っていました。幼少期からの経験で、我慢強くて、自己主張しないが正解と私の中に無意識に植え付けられていました。
それでもストレスはたまります。女性専用のネットの掲示板をのぞいて不倫・借金・犯罪・お酒に悩む書き込みを見ては「まだマシだ、うちはこんなひどく無い・・・」と気持ちをやり過ごしいていました。
私が母子家庭で育ったこともあり、「子どもには両親が必要。」その思いにすがりつきました。ネットで「モラハラ」という言葉を見つけた時は当てはまることばかりで涙がでてきました。それでも離婚と言う考えにはならず、原因がわかれば対処もできる。なんて考えていたんです。
モラハラと言う言葉を知って気がつけば10年以上経っていました。原因がわかっていても、もう無理でした。モラハラはひどくなるばかりでした。
今思えば子ども達にも影響が出ていたんだと思います。学校で問題行動を起こしましたし、不登校にもなりました。
私は消えたいとも思っていました。でも、子ども達を置いて死ねない。経済的な不安と父親がいないことで嫌な思いをするのではないか?という不安で離婚には踏み切れなかったんです。
死ぬ勇気も離婚する勇気も当時の私にはありませんでした。それぐらいモラ夫からは気力も奪われていたのかもしれません。
でもある時、離婚の決心がついたんです。
離婚の決意と新しい生活の始まり
とうとうモラ夫は子どもの夢も壊す最悪最低な言動をおこしました。今まで我慢していた事も限界になっていました。
「こんな人と我慢して一緒にいても何もいいことはない!!!!!」
「子ども達の心をを守らなかったらダメになる」
やっと気がつきました。そして、思い切って別居に踏み切りました。私自身母子家庭で育って、嫌なこと、寂しいこともありました。でも、夫のモラハラは、子ども達にも私にも悪影響でしかないとようやく気がついたんです。
別居して精神的に本当に楽になりました。くだらないことでも笑えるようになりました。ビクビク怯えることもなくなりました。
別居先の部屋は、狭かったですがやっと安心を手に入れられた!と心から思いました。
私の生い立ち、私の性格は、モラ夫にとってはとても都合が良かったのだと思います。結婚前に違和感を感じていながらも、いろいろな状況が絡み合って、結婚してしまいました。
過去に戻れるなら、当時の私に「そいつはやめとけ」と言うでしょう。
自分が感じた違和感はあながち間違っていないんだなと思いました。
別居するまで時間がかかってしまい、子ども達にもたくさん迷惑をかけてしまいましたが、別居したことには後悔をしていません。
もし、あのままモラ夫と同居を続けていたら、今頃どうなっていたか。
それを想像すると恐ろしくなります。
思い切って逃げて良かった。「おりこうさん」をやめて良かったと思っています。
長年我慢することが当たり前の生活だったので、我慢しがちなのは変わりませんが、少しずつ自分の好きなこと、やりたいことに正直になろうと思っています。
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