中国から見た本能寺の変で学ぶ漢文

『明史』は清代に張廷玉によって編纂された史書で、その「日本伝」は倭寇の記事や南朝との貿易、勘合貿易、朝鮮出兵にわたる。ここではそのうち、織田信長がのちの豊臣秀吉と出会ってから、秀吉が朝鮮、中国に出兵しようと考えているというところまでの記事を用いて、文法事項を見ていく。なお現代語訳は末に載せた。(白文は藤堂明保ら訳注『倭国伝』講談社 2010年による、訓読及び現代語訳はこうくが施した)

日本故有王、其下称「関白」者最尊、時以山城州渠信長為之。偶出猟、遇一人臥樹下。驚起衝突。執而詰之。自言「為平秀吉、薩摩州人之奴」。雄健蹺捷、有口弁。信長悅之、令牧馬、名曰「木下人」。後漸用事、為信長画策、奪併二十余州、遂為摂津鎮守大将。 有参謀阿奇支者、得罪信長。命秀吉統兵討之。俄信長為其下明智所殺、秀吉方攻滅阿奇支、聞変、与部将行長等乗勝還兵誅之。威名益振。尋廃信長三子、僭称関白、尽有其衆、時為万暦十四年。 
於是益治兵、征服六十六州、又以威脅琉球、呂宋、暹羅、仏郎機諸国、皆使奉貢。乃改国王所居山城為大閣、広築城郭、建宮殿。其楼閣有至九重者、実婦女珍宝其中。其用法厳、軍行有進無退、違者雖子壻必誅、以故所向無敵。乃改元文禄、幷欲侵中国、滅朝鮮而有之。召問故時汪直遺党、知唐人畏倭如虎、気益驕。益大治兵甲、繕舟艦、与其下謀、入中国北京者用朝鮮人為導、入浙閩沿海郡県者用唐人為導。慮琉球洩其情、使毋入貢。(後略) 
 
日本に故より王有り。其の下に関白と称する者最も尊し。時に山城州の渠信長を以て之(関白)と為す。偶たま猟に出でて、一人の樹下に臥すに遇ふ。驚き起きて衝突す。執へて之(一人)を詰る。自ら言はく「平秀吉たり。薩摩州人の奴なり」と。雄健蹺捷にして口弁有り。信長、之(秀吉=一人)を悦びて馬を牧せしめ、名づけて「木下人」と曰ふ。後に漸やう事を用ゐる。信長の為に画策し、二十余州を奪ひ併す。遂に摂津の鎮守大将と為る。 
参謀阿奇支なる者有り。罪を信長に得たり。(信長は)秀吉に命じて兵を統べ之を討たしむるも、俄かにして信長、其の下の明智の殺す所と為る。秀吉方に阿奇支を攻め滅ぼす。変を聞き、部将行長等と勝に乗じて、兵を還して之(明智≠阿奇支)を誅す。威名益ます振るふ。尋いで信長の三子を廃して、関白を僭称して、尽く其の衆を有つ。時に万暦十四年なり。 
是に於いて益ます兵を治め、六十六州(日本全土)を征服せり。又た威を以て琉球、呂宋、暹羅、仏郎機諸国を脅し、皆奉貢せしむ。乃ち国王の居りし所の山城を改めて大閤を為し、広く城郭を築き、宮殿を建つ。其の楼閣に九重に至る者有りて、婦女珍宝を其の中に実たす。其の法を用ゐること厳しく、軍行は進有りて退無し。違ふ者は子壻と雖も必ず誅す。故を以て、向かふ所敵無し。乃ち文禄と改元す。幷びに中国を侵し、朝鮮を滅ぼし、之を有たんと欲す。故時の汪直遺党を召問し、唐人の倭を畏るること虎の如きを知り、気益ます驕る。益ます大いに兵甲を治め、舟艦を繕ひて、其の下と謀りて、中国北京に入らば朝鮮人を用ゐて導と為し、浙閩沿海郡県に入らば唐人を用ゐて導と為さんとす。琉球の其の情を洩らすを慮り、入貢すること毋からしむ。(後略) 
 
文法 
①存現文 「日本故有王」 
 漢文では物の有る無し、つまり「存在」と自然現象を表すときは、「主語+述語」ではなく、「(場所、時間)+述語+主語」という語順になります。「存在」の「存」と「現象」の「現」をあわせて、「存現文」と称します。このような文型をとれるものには主に「有」「無」「多」「少」などがあります。現代の日本語には「降雨」「隕石」といった熟語がありますが、これらも、「雨が降る」「石が隕ちる」という自然現象であるため、存現文の構造を取っています。 
 
②並列文「而」 「執而詰之」 
 並列文とは2つの事象を並べ、同質、また対比していることを表す文です。単純に動詞を並べるだけでも、表せますが、並列文であることを分かりやすくするため、もしくはリズムを整えるために接続詞をいれることがあります。接続詞には上記の例文の「而」の他に、「又」「亦」などが用いられます。 
③「為」 「為平秀吉」「為信長画策」「俄信長為其下明智所殺」「入中国北京者用朝鮮人為導」 
 「為」はその一字で、いくつかの用法があります。 
1つ目の例文「為平秀吉」は日本語に訳すと「~である」という判断文を構成する「為」です(ここでは主語の「我」が省略されています)。単に「我平秀吉」でも「私は平秀吉である」という意味を表せますが、他に「我者平秀吉也」「我是平秀吉」「我則平秀吉」など「為」を使ったもの以外にも判断文を造ることができます。 
2つ目の例文「為信長画策」の「為」は英語の言うところの前置詞の「為」です。前置詞の「為」は原因「~だから」、目的「~のために」、対象「~に対して」(いずれも訓読で「~の為に」)の意味があります。例文では目的の意味で「信長の為に」と訳せます。 
3つ目の例文「俄信長為其下明智所殺」は動詞の為で「~になる」という意味で使われています。またこの「A為B所~」は一種の構文で、「AはBに~される」という受け身の意味になります(訓読では「A、Bの~する所と為る」)。「所」の意味については、次項で詳しく説明します。 
4つ目の例文「入中国北京者用朝鮮人為導」も動詞の「為」ですが、意味は「~とする」です。 
④構造助詞「所」 「俄信長為其下明智所殺」「改国王所居山城為大閣」 
 動詞(+目的語)の前に「所」を置くことで、名詞となり、その行為、動作の対象の人、事、場所を示すことができます。また「所」の前には、その動詞の主語を置くこともあり、「主語+(之)+所+動詞」ともなる。1つ目の例文では「信長の部下の明智の殺す人」(つまり信長のこと)という意味になるので、前述した通り、受け身の意味になります。2つ目の例文は「国王の居る場所の山城」という意味で、ここでは「国王所居」が「山城」を指す修飾語として使われています。 
⑤助動詞「欲」 「欲侵中国、滅朝鮮而有之」 
 「欲」は「~んと欲す」と訓読し、「しようとする」(意思)や「したいと思う」(願望)の意味を加えます。漢文の助動詞は動詞の前に置き、他の助動詞には「可(可以)」「能」「得」「足(足以)」「宜」「応」「当」「須」「願」「敢」「見」「被」などがあります。 
⑥構造助詞「者」 「入中国北京者用朝鮮人為導」 
 例文では「者」の前後の仮定を表す用法で、「北京に入るならば朝鮮人を先導とする」という意味になります。このように、句と句の間に「者」を置くことで、「~ならば」と仮定表現を表し、また「~するわけは」と因果関係を表すこともあります(訓読ではそれぞれ「~ば」、「~は」)。他に「者」は動詞(+目的語)のあとに置いて、c「~すること、もの、とき、人」を意味します。また日本語の助詞「は」のように、主語の名詞の後に置いて、名詞を強調する働きもあります。この用法のとき、往々にして「A者B也」のように「也」と呼応させて使わせることが多いです。 
⑦使役文 「命秀吉統兵討之」「皆使奉貢」 
 基本的な構造は「使+人+動詞」で「人に~させる」という意味になります。「使」以外には「命」や「遣」、「令」「教」なども用いられます。1つ目の例文を見ると「秀吉」は「命」の目的語でありながら、「統兵討之」の主語でもあり、このような文章の構造を「兼語文」と呼びます。2つ目の例文では主語も目的語も省略されていますが、これを補うと「秀吉皆使琉球、呂宋、暹羅、仏郎機諸国奉貢」となります。「皆」は「みなすべて」という意味の副詞で、「秀吉はこれらの国々みな全てに奉貢させた」という意味です。このように、使役文だけでなく、漢文では主語や目的語が文脈的に明瞭な場合、省略されることが多くあります。
(文法事項は『漢辞海』巻末を参照した) 
 
〈現代語訳〉 
日本には元来王がいる。その下には関白と称するものがおり、関白が最も尊貴の身分である。時に山城州の棟梁信長を関白に任じた。あるとき、たまたま猟に出た際、ある人が樹下に臥しているのを見かけた。その人は驚き起きて信長に衝突した。そこで信長はこの人を捕えて詰ったところ、自ら「私は平秀吉である。薩摩州人の奴婢である」と語った。足は強く、すばしっこいもので、口が立つ人でもあった。信長は秀吉の才を賞して馬を育てさせ、名づけて「木下人」と呼んだ。後に段々と重用されるようになり、秀吉は信長の為に画策し、日本二十余州を奪い併せ、とうとう摂津の鎮守大将となった。 
さて参謀阿奇支なる人がいた。この人は信長に罪を与えられた。信長は秀吉に命じて兵をひきいらせ阿奇支を討伐させたが、信長は突如、部下の明智に殺された。秀吉はちょうど阿奇支を攻め滅ぼしたが、この政変を聞き、部将行長等と勝に乗じて、兵を戻して、明智を誅した。威名はますます振るい、ついで信長の三男を廃して、関白を僭称して、尽く信長の兵を有した。時に万暦十四年である。 
そこでますます兵を治め、六十六州(日本全土)を征服した。また威を以て琉球、呂宋、暹羅、仏郎機諸国を脅し、皆朝貢させた。それから国王の居た山城を改めて大閤を築き、広く城郭を築き、宮殿を建てた。その楼閣には九層もありて、婦女や珍宝をその中に満たしていた。法の運用は厳しく、軍行は前進し後退することは無かった。法に違う者は娘婿といえども必ず誅した。そのため向かう所に敵無しであった。それから文禄と改元し、加えて中国を侵し、朝鮮を滅ぼし、朝鮮を保有しようとした。そこで以前の汪直の遺党を呼び、唐人が倭を虎のように畏れていることを知り、秀吉の気はますます驕った。ますます大いに兵甲を治め、舟艦を準備した。部下と謀り、中国北京に入るなら朝鮮人を用いて先導とし、浙閩沿海郡県に入るならば唐人を用いて先導としようとした。琉球がその情報を洩らすを心配し、入貢をさせないようにした。
(「阿奇支」なるものと、「明智」なるものの2名が現れ、この両者はどちらも「あけち」と読める。前者については、毛利氏との混同ともいう) 


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