種痘のおはなし

 現在私たちの周りには病気になる前から、その病気に対抗する手段が当然のように存在している。今、世界を悩ます悪疫の流行に対して、驚くべき速度で対抗手段のワクチンが開発されたことは記憶に新しい。しかし、長い歴史の中で、今のような状況がむしろ当然ではない。ここでは、ワクチンがいかにして登場していったのか簡単に歴史を見ていきたい
 
1. 天然痘の恐怖
ここ最近まで、大いに人を悩ませた病気の1つに天然痘が挙げられる。今でこそ、蟻田功氏らの尽力あって、WHO(世界保健機構)は、1980年、天然痘の世界根絶宣言が出された。しかしそれまでは歴史上、「もがさ」や「痘瘡」と呼ばれ、何度もその顔を表した。天然痘流行が見える最初『続日本紀』天平7年8月丙午には「大宰府言さく『管内諸国疫瘡大いに発し、百姓悉く臥す(後略)』と」とある。この前後には同様の一件を指す記事も見え、相当な流行であったことが推測される。これ以前、欽明天皇の代には、疫病の流行があったことを伝える。『日本書紀』のよると、蘇我稲目が仏教を受容したことに由来するという。『日本紀略』には「天下衆庶、痘瘡を煩ふ。世、之を『稲目瘡』と号す。」と見え、欽明のときのそれが痘瘡であったと考えられていたそうだ。また罹患を予防する手段も生まれた。例えば、近世では、鎮西八郎源為朝の錦絵を飾ることは特に有名だが、その他にも多くの俗信の事例が取材されている。

2. 種痘の伝来
 日本に最初に種痘が伝わったのは延享元(1744)年という。唐人の李仁山が伝えた。このときの種痘は人痘接種法というもので、痘瘡に罹患した人の発疹から漿液を取り出し、それを未感染の子供に植えたり、病人の患者が来ていた服を着たり、瘡蓋を粉にして鼻から吸ったりする方法があった。秋月藩の緒方春朔がこれを完成させ、九州を中心に広まっていった。仁山に相対した通詞の平野繁十郎と林仁兵衛はのちに『李仁山種痘和解』にしてまとめた。『橘氏医話』には「徳川吉宗の頃、長崎に唐土の医者、李氏というものが来て、種痘を行った。このころ、痘瘡は大いに流行し、長崎の子供たちは多く、李氏を頼って痘を植えた。百発百中で、失敗せず、私の友達の父も種痘を学んで、行われた。李氏の名前は江戸にも聞こえて、官医に任じられ、この法を教示したという」と見え、その評判の高さが伺える。また多紀桂山(古代以来、医学の家として典薬頭に就いてきた丹波氏の人)は「聞くならく、日本房州浜海一村において、数百年前から種痘法は行われてきた。乾いた苗を用いることが多かった。つまり中国よりも先に種痘が行われていた。なんと不思議なことだろうか」と述べている文献があるが、これは事実とは異なるだろうとされる。
 寛政5年、実はドイツ人の蘭医ベルンハルト=ケルレルは長崎にいたときには、鼻から吸う方法とは別の方法で種痘を行った。ハサミで、膿を切って、液を針に塗り、その針を子供の静脈に刺し、そこを包帯で巻くというものである。この方法もわりかし広まったようである。
牛を使った牛痘接種法がジェンナーによって完成された後、日本には情報として度々、この方法が入ってきていた。文政6年には、実際にシーボルトによって種痘が運ばれてきたが、すでに腐ってしまっており、失敗したそうだ。嘉永2(1849)年、有効な種痘が蘭医モッケーニによってもたらされた。これは鍋島直正が通詞にして藩医楢林宗建を遣わして求めたものである。この方法も一定の効果が得られ、宗建は『牛痘小考』を著し、数か月ほどで江戸や京都にも牛痘は広まっていった。

3. さいごに
 どんなことにも風説は付き物である。現代のワクチンと似たように、種痘に対しても根も葉もない噂が現れた。緒方洪庵は除痘館を営んで、種痘の普及に努めたが、それは一筋縄ではなかった。今ではすっかり有名になった『除痘館記録』には、「都下悪説流布して牛痘は益なきのみならず、却て自児体に害有りといひ、之を信ずるもの一人も之無きに至れり。茲に於いて、已むを得ず、頗る米銭を費やし、一会毎に四、五人の貧児を雇ひ、且つ四方に奔走して之を諭し、之を勧め、幸いにして綿々其の苗を連続せること、三、四年、漸くにして再び信用せらるることを得たり」とみえる。風説の流布に対し、人を雇って対処したようであるが、現代、私達の目の前、乃至手の上には銭を費やして雇った、万能な箱がある。これを使って、あくまでも正しい情報を得たうえで、するや否やの判断を下すことが必要となってくるだろう。

【参考文献】
富士川游著 松田道雄解説『日本疾病史』平凡社 1912年
酒井シヅ『病が語る日本史』講談社 2002年 

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