酒の失敗

 朝起きると、ベッドに女の子が寝ていた。
「おいおいおい」
 頭を抱える。半分は状況への言葉、残りの半分は二日酔いの頭痛のため。
 冷蔵庫から冷たい麦茶を出してコップに注ぎながら、ざっと自分の状態を確認する。パンイチなのはいつものこと。全裸でないところを見るとコトには及んでいないのだろうか。いやいや、終わってから履いた可能性だってある。記憶をなくすほど飲んだ俺がわざわざそんな律儀なことをするとは思えないが、逆に自動的にルーチンに従うのもありそうなことだ。
 いやいやいやそんなことよりこの状況だよ。
 音楽サークルにいる関係で、合コンなどに行くまでもなく男女混合の飲み会には事欠かないが、お持ち帰りなどしたことがない。意識がありゃいいってもんでもないだろうが、ちゃんと合意を得るとか、サークル内の人間関係に配慮するとか、最低限気にすべきことはあるだろう。記憶もないというのはどうかんがえてもよくない。相手によってはめんどくさい事態にもなりかねないわけで……
 そうだ、だいたい誰なんだこれ。
 仰向けの寝顔をまじまじと眺める。
 え……こんなやつ、いたっけ?
 いや、いない。寝顔を知ってる女子なんかいないけど、どうやらメイクは残ってそうだし、見誤るほど違う顔になっているとは思えない。
 まてまてまて、知らない人だって? ってことは飲み屋で意気投合して、とか? 要は行きずり? おいおいおい。
 慌てつつも、奇妙な満足感のようなものがあったことは否定しきれない。
 自分で言うのもなんだが、俺は真面目な性格である。そういうことをするならちゃんと付き合ってからと思っているし、いままでのところ、そのように行動してもきた。
 だがその一方で、一夜限りのアバンチュール、みたいなものへの欲望は、俺にもないわけではなかった。しようとしない自分を知っているからこその歯痒さ、というか、オスとしてのコンプレックスみたいなものを、俺は感じ続けてきた。
 だから、こんなことをしでかしてしまえたことに、なにやら誇らしさのようなものを、感じていたのだ。
「う、ううん……」
 女がうめいて寝返りを打ち、俺は振り向いた。
 急にパンイチなのが意識される。今更気にすることもないのかもしれないが、気恥ずかしくて、慌て気に部屋着を身につける。ちょうどズボンを引き上げ終わった瞬間、女はそれを待っていたように目を開いた。
「あ……おはよ」
「お、おはよう」
 いささか間の抜けた感じで返事をする。
「びっくりした? したよね? いや、だってあなた寝ちゃうしさ、あたしのほうも何度も戻るの疲れるし……」
「ちょっと待ってくれ、なんの話だ?」
 どうやら一緒のベッドに寝ていただけであるらしいことが察せられ、安堵と失望を同時に感じながら聞き返す。
「何度も戻るの疲れる、って、どっちにしても俺のとこにいなきゃいけない理由があるってこと?」
 女は目を丸くし、驚愕の声を上げた。
「え? 覚えてないの? 何にも? またイチから説明しろってこと?」
 ここで、深いため息。
「めんどくせえ……」
「そういわれても、覚えてないんだからしょうがないでしょ」
 俺は彼女から目を逸らしながらぶっきらぼうに言う。身を起こした彼女は、薄いネグリジェのようなものを着ていて、内側の裸体がほのかに透けて見えたからだ。
「うわ。開き直り。まったく、優里亜もなんでこんなやつ」
「ゆりあ? ゆりあって、池崎優里亜? 君、池崎の知り合いなのか?」
 池崎優里亜。一個下の後輩。面長な輪郭にストレートなショートボブ、イタズラっぽい瞳。特に意識したことはないが、それなりに魅力的ではある。
「そ。あたし、ゆりあのためにここにいるのよ」
「……どういうこと?」
「途中までとはいえ、ゆうべ一回言ったんだけどなあ……」
 ぶつぶつ言いながら、女は話し出した。
「昨日の飲み会でさ、ゆりあから何かもらったの、覚えてない?」
「えっと……」
 俺は二日酔いでガンガンする頭を必死で働かせる。
「あー、飲み会っていうか、終わった後で……」
 ぼんやりと記憶が蘇ってきた。

「先輩、こないだ誕生日だったんですよね」
「え? ああ、こないだっていうか、二週間くらい前ね」
「あの……これ、頂き物なんですけど、あたし、家でお酒飲まないから……どうしようかなと思ったんだけど、先輩がお酒詳しいのと、誕生日近かったの思い出して。よかったらもらってくれませんか?」
「え、そうなの。いやわざわざありがとう。重かったでしょ」
「いえ、大丈夫です」
 受け取った紙袋を覗き込むと、確かに酒瓶らしき黒い瓶が入っている。ラベルには見慣れない異国の言語。
「これは……見たことないけど、リキュールかな?」
「そうみたいです」
「どっからもらったの、こんなの」
「え、いえ、あの……実家、から」
「ふうん……」
 変わったご両親だな、などと考えつつ瓶を袋に仕舞い込む。
「ま、いいや、とにかくありがとう。美味しかったら教えるね」
「あ、はい!」
 
「あー」
 俺はあの瓶を探す。床置きの小さなテーブルに、グラスと並んで置いてあるのが見えた。
 そうだ、俺、飲み会終わった段階ではそれほど酔ってなくて……んで、飲み足りねーなーと思って一人でこの瓶開けて、それから……
 中身を確認すると、半分以上がなくなっている。
「うまい! 甘いけどうめーわ、これ!」
 そんな自分の声が脳裏に甦ってくる。
 そうだ、チョコレートかベリー系の果実を思わせる華やかな香りに、なんだか楽しくなってきて、つい杯を重ねてしまい……。
「思い出した? まったく、ガブ飲みするような酒じゃないってのに」
「いや、待てよ。待ってくれよ」
 俺は頭を振る。
「これ開けて飲み始めるまで、君はいなかったと思うんだけど」
「まあそうね。この姿では存在しなかったわね」
「この姿で? どういうことだ?」
「だからさ、昨夜も言ったんだけど」
 女はまたため息をついて、言った。
「あたし、精霊なのよ。そのお酒の」
「はあ?」
 あまりの意外というかトンデモな答えに、俺は思わず遠慮のない声をあげる。
「そんなアホな」
「アホとは何よ失礼ね。あんただってその瓶開けるまであたしはいなかったって認めたでしょ」
「それとこれとは」
「じゃあ何よ、あたしがそのあと不法侵入してきたとでも? この格好で? 痴女にしてもなんであんたの部屋に忍び込まなきゃならないのよ」
「それは……ストーカー?」
「ストーカーがこんな話すると思う?」
「新手の美人局的な?」
「だったらとっくにこわーいお兄さんが乗り込んできてるわよ」
「じゃあ……何かの詐欺、とか」
「この状況でどういう詐欺が成り立つか考えてから言ってよね。まあ、ていうか」
 彼女は目を伏せていった。
「結局詐欺みたいなことにはなっちゃったんだけどね」
「ほらみろ」
「バカ違うわよ。あたしが詐欺だとしたら、被害者は優里亜」
「はあ?」
「まあ、信じる信じないはあんたの勝手だけどさ」
 女は話し出した。
「そのお酒ね、何かっていうと、要するに、一種の媚薬っていうか、惚れ薬的なアレなのよ。ていっても、医学的に有効な成分が含まれてるってわけでもなくて……」
「ちょ、待ってくれ、その惚れ薬を、池崎が、俺に? ってことは」
「ま、そういうことよ。でね、本来なら、いい感じに酔ったところで、あたし、つまり精霊がね、贈られた相手の心に、恋心を吹き込むんだけどさ」
「本来なら?」
「そう。ときどき、失敗するのよね、これが。あんたみたいなのがいるから」
「俺みたいな?」
「つまり、あたしたち精霊が見えちゃうやつがさ」
「へ?」
 俺は聞き返す。俺に精霊が見える? 今までそんなの見たことない。もちろん幽霊の類だって。見るどころか金縛りすら経験がないのに、いきなりそんなことを言われても。
「まあ、日常的なものの精霊はね、常識の中に隠れちゃうから。騙し絵を見るみたいに、コツを掴まないと見えないのよね。でもあたしみたいなイレギュラーっていうか、ちょっと非日常的な精霊はさ、見える目さえあれば、見えちゃうの」
「それで、だったらどうだっていうんだよ」
「相手に見られるとね、あたしの力って効かなくなっちゃうのよ」
 自称・酒の精霊は言う。
「だからさ、この酒の香りと味に酔い始めたあなたに、あたしが恋心を吹き込もうと出てきたところで、あんたが『ななななんだおまいはっ!』って叫んで、ジ・エンド。あんまり騒ぐからことの顛末を説明してたら途中で寝ちゃうし。しょうがないから目が覚めたら続き話そうと思って一晩中部屋にいたわけ」
「ええっと」
 戸惑っている俺を尻目に、彼女はベッドから立ち上がった。
「てなわけで用も済んだし、あたしもう消えるわ。力は使えなかったけど、気持ちは伝えたから、まあいいことにしとこっと。じゃあね」
 言うが早いか、女の姿はすうっと空気に溶け込むように消えてしまった。
 あとにはほのかにチョコレートのような、ベリー系の果実のような香りが残っていた。

 俺は池崎優里亜と付き合うことになった。
 元々可愛いとは思っていたのだし、気持ちを知ってしまうと、無視するのは難しくなっていき、そのうちほんのりと好意も芽生えてきたので、当然の成り行きといえた。
 さて、これは、あの自称・精霊にとっては失敗なのか、それとも終わりよければすべてよし、なのか。
 ときどき薄物越しの裸身を思い出してしまうことは、優里亜には内緒だ。

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