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望み

「きゃああああああああっ!」
 つんざくような悲鳴。俺は慌てて浴室へと向かう。
「どうした!」
「あああああっ!」
 なおも続く由利香の声に、躊躇をかなぐり捨て浴室のドアを開ける。 
 一糸纏わぬ姿よりも、その全身を染めた色に目が奪われた。
 赤。そして鉄臭い匂い。これは……血?
 その赤い液体は、床に落ちたシャワーヘッドからなおも吹き出し続け、座り込む由利香の足を濡らし続けている。
 靴下が汚れるのも構わず踏み入って、しっかりとシャワーの栓を閉じる。
「由利香! 由利香! もう大丈夫だ。大丈夫だから」
「なにこれ……なんなの……」
 肩を揺する俺に泣きながらしがみついてくる由利香。赤黒く濡れた髪に頬を当てる。浴室を満たす金臭い匂いが、さらに濃厚なものとなって俺の脳髄を突き刺した。

「……よく考えてみたら……」
 浴室に溜まっていた湯で全身を濯ぎ、さらに濡れタオルでこすって部屋着を着た由利香は、ソファの上で膝を抱え、しばらく黙って床を見つめていたが、やがてぽつりぽつりと話し出した。
「なにかおかしかったのよ……気のせいかと思ってた。思おうとしてた。でもやっぱり……」
 ここ何ヶ月かの間に起こった変事を数え上げる由利香。いくつかは俺も聞いた覚えがあった。
 お気に入りの人形の向きがいつのまにか変わっていたこと。
 夜中、電源を入れた覚えもないパソコンで、音楽が再生されていたこと。
 確かに消したはずのガスの火がつけっぱなしだったこと。
 台所の奥の方に置いたはずの包丁が、何かの拍子に床に落ちてしまったこと。
「おかしいって思ってはいたの。そりゃあたしだってうっかりすることくらいあるけど、確かに止めた覚えのあるガスの火がついていたり、はっきりどこに置いたか覚えている刃物が全然別の場所にあるなんて、そんな思い違い、したことないし」
「じゃあ、ひょっとして」
 俺は言う。
「ストーカーのことも……」
 頻繁な無言電話や深夜の呼び鈴。ストーカー被害を疑い、警察に相談した上で、なおも不安と恐怖を感じた、それが今日由利香が家に泊まりに来た直接の理由だ。だが。
 由利香は無表情に頷く。
「呼び鈴のあと、どんなに早く外見ても誰もいなかったし……足音もしないのに、よ?」
「一回も? 人影も見えなかった?」
「それが……」
 由利香は言い淀む。
「昨日の夜、ね、また呼び鈴が鳴って……眠りかけてたし、またかと思ったんだけど、ドアホンのモニターみたら……」
「誰かいたのか!?」
「うん……ううん、でも、わからないの。真っ黒い影で……髪が長い、女の人みたいだったけど……突然、目が開いて。ぎょろっとした、真っ赤な……恨みがましい、恐ろしい目で、その目に見つめられた瞬間、あたし……気がついたらベッドの上で、だから、夢だったのかも……」
 記憶を刺激するものがある。だが、まさか……
「なあ、由利香。一つ聞きたいんだが……何か変だと思う、そういう出来事が起こり始めたのは、いつ頃からだ?」
「三ヶ月くらい前からかな。ちょうど、あなたと付き合い始めた頃からだったから……」

 その夜。
 うめき声を聞いて、俺は目を覚ました。
「おい、どうした、大丈夫か……!」
 寝ぼけまなこで傍を見て、俺は絶句した。
 苦しそうに、身悶え、うめき声をあげる由利香。そして……その上に……真っ黒な、長い髪をたらした、女の姿が! 女は由利香の上にのしかかり、その首元に腕を伸ばしている。
「やめろ!」
 叫ぼうとしたが掠れ声しか出ない。体も動かない。女を押しのけようにも、わずかに首をそちらに向けた姿勢のまま、指先一つ動かすことができない。
「やめろ……やめてくれ……」
 由利香の呻き声が細くしわがれていく。彼女を失う恐れが、異常な現象への恐怖を上回った。
「やめてくれ……やっと、みつけたんだ……」
 由利香と出会うまでの俺は半分死んでいるも同然だった。残りの人生になんの希望も持てず、ただ一日一日を消化していくだけの日々。そんな俺の心を溶かしてくれたのは、由利香だ。由利香が、取り戻させてくれた。笑顔を。光を。人生を。全てが報われた、そう思った。出会えた喜びは、いつしか由利香を幸せにしようという決意に変わっていた。
 こんなに生き生きした喜びを感じることができたのは、久しぶりだったのだ。
 そう、秋海を事故で無くして以来のことだった。
 長い黒髪と、大きな目をした秋海。かつて俺の全ての喜びだった秋海。彼女の死とともに、俺は生きながら死んだような日々を、長い間過ごすことになったのだ。
 由利香に出会うまで。
 その由利香を奪っていくと言うのか。
 再び、全ての幸せを失ったまま生きていけと。
 いや、だめだ。
 俺はいい。何も手元に残らないとしても、それは元々俺が過ごしていた日々だ。
 だが。由利香は。
 由利香だけは、幸せになって欲しい。
 こんなところで……俺と知り合ったばかりに、命を失うなんてことは、あってはいけない。
「なあ、秋海」
 俺は彼女の名を呼んだ。途端に振り向く影。ぎょろりとした目が俺を見つめる。やはりか。
「やめてくれないか。由利香は……そいつは、悪くないんだ」
 秋海は答えない。ただその目だけがじっと俺の内心を推し量るように見つめている。そこにあるのは怒りなのか。悲しみなのか。
「悪いのは俺だろ? 俺が、お前を裏切ったんだ。ごめんな。勝手に幸せになろうとして」
 そうだ。俺のことはいい。元々死んだような人生だった。由利香がいなければ、俺は死んだも同然だったのだ。だから。
「だいたい、由利香を連れて行っても仕方がないだろ? 連れてくなら、俺だろ?」
 だから、俺のことは、いい。
「俺じゃなきゃ、ダメだよな?」

 秋海は……黒かった全身に、生きていた頃と同じように色が戻った。彼女は微笑み、由利香の上を離れて浮かび、俺の体を……魂を、抱きしめて……
 遠くなっていく意識の中で、俺は奇妙な安らぎを感じていた。

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