春は名のみの……
重く澱んだ空。ホームを冷たい風が吹きすぎて、ユカは身を震わせた。
暖かくなってきた、そう思っていたけれど、朝はまだこんなに寒い。
テレビのニュースによれば、これから向かう先は暑いくらいの気温で、桜が満開らしいけど。
「冗談みたい」
ついそんな言葉が口をついて出る。
簡単には信じがたい。
そんな場所があることが、ではない。自分が今から、まさにそこへ向かおうとしていること、数時間後にはその風景の中に身を置いているだろうということが、何よりも、信じられない。
スマホを取り出す。通知はない。念の為メッセージアプリを開いてみるが、やはり返信は来ていない。
一番下にあるのは、二日前、自分が打ち込んだ言葉。
『あたし、待ってるからね』
ユカは思い出す。
あれは、高校の合唱部に入って、最初の夏休みだった。
コンクールに向けての練習も大詰めとなっていたその日、不意に訪れた、練習のお休み。
学校の都合で、全員午後は帰るように、とのお達し。
本番が近いのに、と焦りを口にする先輩もいたけれど、ユカは正直、少しありがたかった。ここのところ、息が詰まりそうだったからだ。
真面目にやるのが嫌なわけではない。連日の練習自体が苦痛だと感じたことはなかった。
けれども、必死の形相で全国大会常連校の打倒をうったえる先輩たちには、ちょっとだけ、ついていけなかった。
あんな顔で歌ってて、楽しいのかな。
ついそんなふうに思ってしまう。
この休みは、自分と部活、そして音楽との関係を見つめ直すには、いい機会だと思えた。
午前の夏期講習を終えた帰り、昇降口で靴を履き替えていると、やにわに外が暗くなってきた。
あれっと思うまもなく、大粒の雨が降り始める。
急激な天気の変化に、思わず舌打ちが漏れた。
「ごめん、先行ってて」
一緒に帰ろうとしていた友人にそう声をかけ、ユカは踵を返した。
音楽室に置いてある置き傘をとりに戻ったのだ。
講習を終えた生徒たちの波に逆流し、廊下を小走りに進む。西棟、図書室前の階段を上がり、職員室を通り過ぎて音楽室へ。
扉に手をかけた時、ユカは眉を顰めた。
……誰か歌ってる?
静かに扉をあけ、内戸にはまったガラス越しにこっそり中をうかがう。
「マミ……」その口から声が漏れた。
同じソプラノの一年生、マミが、一人ピアノの前に立って、歌を歌っている。
雨の音が聞こえる 雨が降っていたのだ
それは、男声合唱の古典的なレパートリーだった。もともと中程にソロのある曲であり、こうして女声が歌曲のように一人で歌っていても、違和感を感じない。
それどころか。
上手い子だな、と思ってはいた。音程も確かだし、どこまでも伸びていくような、まっすぐな明るい響きの声が魅力的だ。でも、今目の前で繰り広げられる演奏は、それだけではなかった。
メロディと言葉の抑揚を、やさしく伝えてくる歌唱。音でありながらどこか静寂を思わせる、揺らぎのない響き。
強く激しい現実の雨音すら忘れさせるような、静謐な歌声。
雨が上がるように しづかに死んでいこう
辛気臭い、と言いたくなるようなそんな歌詞による結尾の歌い方すら、詩人の心に寄り添うようで、ユカは聞いていて胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
長い余韻を残して歌声が消えていった時、ユカは思わず拍手をしていた。
びくっと顔を上げるマミ。ユカは内戸を開け、中に入ってまた拍手を続けた。マミが照れて笑う。
「やだ、聞いてたの? はずかし」
「恥ずかしがることないじゃん。めっちゃ良かったよ! あたし、感動しちゃった」
「やめてよお」
「本当にうまかったってば。傘取りに来て得しちゃった。ね、マミは何してたの?」
「ううん。帰る前に、ちょっと声出しておきたくなって」
「えー? せっかく休みなのに」
ユカは笑う。マミもつられたように笑った。
「まあ、そうなんだけど。歌、好きだしさ。家に帰るとあんまり大声出せないし。それに……たまには自分の歌、歌いたくなったっていうか」
「自分の歌?」
ユカは眉を顰める。マミは続けた。
「うん。部活だとさ、先輩とか先生とかに言われるままだし、みんなに合わせなきゃって思うし……それはそれで楽しいんだけどさ、でも時々、思っちゃうんだよね。もっとこういうふうに歌いたいな、とか」
「わかんなくもない、かな」
指示が常に納得いくものとは限らない。それはユカ自身にも経験があった。
「ね。先生からのはさ、まあそれでも、そういうのもありかなって思うことの方が多いんだけど、先輩に言われて、ちょっと違うんじゃないかなって思った時とか。流石に言えないよね、一年生が」
「わかる」
ユカは苦笑した。
「ここだけの話さ、メイカせんぱいとか、時々無茶言うよね」
「そう、それ!」
マミが身を乗り出して叫んだ。
「あーよかった。そう思ってるの私だけじゃなかったんだ」
「まあ、なんとか誤魔化しながらやってるけど」
「あたしも。なんかホッとした、本当」
「こんなに歌えるならさ」
ユカは言った。
「先輩たちも、そのうち無視できなくなるよ。そうなったら、言ってやるといいよ」
「えー。ユカも一緒に言ってよ」
「あたしの実力じゃ聞いてもらえないよ」
「何言ってんの。ユカ上手いじゃん」
「それこそ何言ってんの、あんなに歌える人が」
「いや、本当だってば。ユカは上手いよ。さっきみたいなの聞かせて恥ずかしいくらいだよ」
「いやいやいやいや、おかしいから」
「おかしくないってば。自分で気づいてないの? 勿体無い」
「あんまりおだてないでよ、恥ずかしいなあ」
頑ななユカの言葉を聞いて、マミはしばらく考え込むように目を伏せた。そして、ぱっと顔を上げ、言った。
「ユカ、一緒に歌お。課題曲のさ、ディヴィジョンのとこ」
「え?」
「ほら、こっちきて。暗譜してるよね」
「多分、覚えてるけど」
「ユカ上でしょ。あたし、下だからさ、ちょうどいいじゃん。最初の音……これと、これであってたっけ。いい? じゃあいくね」
さん、はい、そう言って歌い出すマミに合わせて声を出す。最初はおずおずと、次第にのびやかに。
マミとユカ、二人の声が、響きあい、絡み合う。お互いの呼吸を図りながら、テンポを探り、ブレスをとって、二人の旋律を紡ぎ続ける。
ああ、楽しい。
ユカはいつしか夢中になっていた。
久しぶりだ。歌うのが、こんなに楽しいなんて。
コンクールに向けての練習で、自分の感性が疲弊していたことが実感される。
そうだ。本来歌うのは楽しいことのはずだ。あたし、忘れてたんだ。
コンクールが悪いわけではないと思う。ただ、いくらコンクールでも、勝つことの方が目的になってしまうなら、それは違う。
音楽そのものが目標にならなきゃ。
曲が一区切りついて、どちらからともなく歌いやめたあと、二人はお互いを見つめ、笑いあった。
「ね?」
マミが言う。何が「ね?」なのかよくわからなかったけど、ユカは自然に、頷いていた。
あれから二年半。
一緒に受けた音大に、自分だけが合格した時、ユカは、どんな顔をしていいか分からなかった。
マミがあっさり、滑り止めで受けていた短大に行くと聞いた時も。
「親とさ、今年一年だけって約束だったから」
マミは寂しそうに笑った。
「ごめんね。約束守れなくて」
ユカはなにも言えなかった。
全部、マミのおかげなのに。
マミの、あの日の歌に憧れて、私はここまで来たのに。
そんな想いが拭いきれず送ってしまったメッセージ。
「あたし、待ってるからね」
残酷かもしれない、そう思った。
でも、諦めてほしくなかったのだ。
夢を追う自分の隣に、マミにいて欲しかった。
エゴだとわかってはいた。わかってはいたけれども、どうしても、送らずにいられなかった。
冷たい風が雪解けの匂いをはこんでくる。
到着した電車に、ユカは乗った。
その時。手にしたスマホが、ポン、と音を立てた。
デッキに立ったまま、画面を確認する。
そこにはマミからのメッセージが表示されていた。
「頑張ってね」
ユカはひとつ、ため息をつく。
まだ冷たい春風が吹き込んでくるのを遮るように、ドアがしまった。
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