八方美人
「こんにちは」
カフェのオープンテラスの片隅に座る、白いワンピースの女性。僕は帽子をとって挨拶をした。
彼女は一瞬、少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに愛想良い微笑みとともに言った。
「ごめんなさい、どなたでしたかしら」
「覚えてらっしゃいませんか。佐伯の友人です。奥様とは、ちょうどこの先のレストランで、偶然一度」
ゆっくりと、目に理解の光が灯る。
「ああ、確か、学生時代からの……」
「そうです。まあ、悪友ってやつかもしれませんがね」
口を歪めて見せると、彼女も曖昧な笑みを浮かべる。僕はその曖昧さの間を縫うように、つづく言葉を滑り込ませた。
「ご一緒しても?」
奥さんは少し逡巡する様子を見せた。夫の旧友とはいえ、ほぼ初対面の相手でもある。二人きりで時間をすごすに抵抗を覚えるのは当然と言えただろう。それでも僕がこんな申し出をしたのには、理由があった。
「実は……佐伯のことで、少々お話が」
声を顰めて言う。
なおも少しためらいを見せた後、決心したように、彼女は頷く。
「どうぞ」
目線で示された正面の椅子に、僕は腰を下ろした。
ウェイターを呼び止めてアイスコーヒーを注文する。彼女は済ました顔で、ティーカップを手にあらぬ方向を眺めている。話があるのならばすればいい、こちらからは関わりを持たない、とでもいいたげに。僕は飲み物が届くのを待って、おもむろに話し始めた。
「たしか、四年でしたか。結婚されてから」
「はい、……ちょうど先月が記念日でしたわ」
「それはおめでとうございます」
「ありがとうございます」
「いや、正直、知らせを聞いた時は驚きましたよ。あの佐伯もついに年貢の納め時かと……あいえ、失礼しました。とにかく、こんなに早く結婚するタイプとは思えませんでしたから」
「当時のことならいろいろ聞いておりますわ。主人ったら、結婚前のこと、あけすけに話しますのよ」
「はは、あいつらしい。けれども、お嫌じゃないですか」
「過ぎたことですもの。だからこそ話すのでしょうし」
「お心が広くていらっしゃる。佐伯が羨ましいですよ」
「まあ、そんな」
彼女は上品に笑う。
「いや、実際、そんな佐伯があなたとの結婚を決めたのは、それだけ彼にとってあなたが魅力的だったから、言ってみれば、理想の女性だったからなんだと思いますよ」
「そうかしら」
「もちろんです。仲間内じゃさんざん、何かよからぬことをやらかしてツケを払う羽目になったんじゃないかなんて噂したもんですが、どうやらそういうわけでもないらしい、その上奥さんときたら誰があっても一目で虜になるような素晴らしい女性らしいと伝わってきて、これは佐伯がよっぽど惚れ込んだということだろうと、そういう話になったんです」
「まあ」
「僕自身、一度偶然お見かけした時、納得せざるを得ませんでしたよ」
「そんなことをおっしゃって。主人についてのお話があったのでは?」
声に警戒心が混じる。
「ええ、まあ……というか、実を言うと、佐伯に頼まれたんですよ。奥さんと、話をしてほしいと」
「えっ」
眉を顰める彼女。僕は懐から、数枚の写真を取り出し、彼女に向けてテーブルの上に広げた。
「佐伯からあずかったものです。どれも、あなたの写真のはずですが……まるきりの、別人に見えますね」
「何をおっしゃっているんです? これが全部あたしの写真だなんて……あの人も、なんで、こんなこと」
「しばらくの間は良かった」
僕は彼女を半ば無視して話し始める。
「自分が心に思い描いた通りの、理想の女性が現れた、そう思って舞い上がっていられた間は。けれども佐伯もバカじゃありません、自分の生来の移り気、何にでもすぐ飽きて新しいものを求める性癖は、自分でもよく自覚している。だからこそ、逆に、不審になってきたんです。俺は一体どうして、妻にだけは、いつまでも魅力を感じ続けていられるのだろうと。それでも三年は、そういうものだろうと思っていられた。自分が移り気だったのは、まさにこういう女を探していたからなのだ、言ってみればついに目的地を見出したのだ、と。ところが……佐伯は見つけてしまったんです。あなたがしまい込んでいた、結婚式の写真を。そこに写っているのは、今のあなたとは似ても似つかない顔だった」
「何をおっしゃりたいんですか?」
彼女は色めきたって言う。僕は今にも立ち上がってここを去りそうな彼女を宥めるように手のひらを下に向けた。
「まあ、落ち着いてください。実を言うと、私には、最初に偶然お会いした時から、わかっていたんです。あなたが、そういう存在であることは」
「そういう、って……」
「いいんですよ、隠さなくても。あなたは、見る人の理想を映し出す鏡。そういう性質を持った、人に似た……ご無礼を承知で言えば、古来、妖怪などと言われてきた類の存在だ。僕にはそういうものたちを見抜く力がありましてね。あなたのことも、一目見てわかってしまったんです」
彼女は顔面を蒼白にしてこちらを見ていた。
「一体……」
その口から声が漏れる。
「どうしろと。佐伯に、このことは」
「まだ言っていません。じつをいうと、言うつもりもない」
彼女の顔に安堵と新たな不審が同時に浮かぶ。
「じゃあ、どうして」
「佐伯にどういうことなのか確かめてほしいと言われたのは本当です。けれども僕は、あなたの意図に確信が持てなかった。何らかの悪さを目論んでいるなら、佐伯に全てを話し、あなたを放逐するつもりでした。でも、どうやらそういうわけでもなさそうだ。その様子を見ていればわかります。あなたは、本気で佐伯のことを愛していらっしゃる。違いますか?」
「……はい、その通りです」
奥さんは言う。僕は笑った。
「だったら、僕なんかが掻き回すようなことじゃない。何も知らなければ二人とも幸せなんだ。佐伯には、僕の方で適当に話をしておきますよ。なあに、僕にはちょっとばかり、催眠暗示の才能もありましてね。ご心配は要りません」
彼女の顔が輝き、一粒、安堵の涙が溢れる。僕は立ち上がった。
「どうぞごゆっくり。驚かせてしまったお詫びに、お会計は済ませておきますよ」
「……ありがとうございます」
彼女は言い、それからちょっと首を傾げた。
「あの、最後に、聞かせていただけますか。あなたに最初にお会いしたのは、二年くらい前だったと思いますが、今日も私の顔はその時と同じに見えたのですか? 今までに私と会った殿方は、一定期間合わずにいると、同一人物だと特定できなくなる方ばかりだったのですが」
僕は帽子を被り、言った。
「さあ、どうでしたかね。どちらにしても、あなたは魅力的ですよ。あの時も、今も」