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ときめきのありか

「好きかって聞くけど……好きに決まってるじゃん。でも、ときめかないの。ごめんなさい、さよなら」
 僕はただ呆然と立ち尽くしていた。彼女の去った改札の向こう側を眺めたまま。そこに、彼女の残した言葉の真意が横たわっているのではないかとでもいうように。
 僕にはわからなかった。「ときめき」の意味も、それがない「好き」という感情がどんなものかも、彼女が見せた涙の理由も。
 ただ、そんな僕の鈍い頭にも、「別れ」という現実は少しずつ染み込んできた。
 そうか。
 僕は思った。
 もう、会えないのか。
 電話越しの声に寂しさを忘れる夜も、次の約束に心躍らせる日々も、笑顔に心温め、浮かない顔に不安を覚える、そんなかけがえのない時間の一つ一つも、もう、僕と彼女の間には訪れないのか。
 涙は出なかった。悲しいのかどうかもわからなかった。
 ただひたすらに、空虚だけを、僕は噛み締めていた。

「なーに暗い顔してんだよ!」
 突然、後ろから章成が大声でがなって背中を叩く。
「珍しく飲み会に顔出したと思えば辛気くせえ。飲め! 盛り上がれ!」
 僕はため息をつく。大学合唱団の練習後、恒例の飲み会。飲めというならもうずいぶん飲んでいるし、僕自身、パーッと憂さ晴らしがしたくてここに来たのだ。だが飲めば飲むほど気持ちは沈み、酔えば酔うほどあいつのことばかりが思い出される。
「そうですよぉ、せんぱぁい」
 いささか呂律の回らない口で、向かいに座った琴美が言う。
「こんな可愛い子前にして、一体どこ見てやがるんですかこのやろう」
「あーはいはいかわいいかわいい」
 すかさず章成が心のこもらない相槌を打ち、琴美は「ひどーい」なんて言いながら頬を膨らませる。僕はかろうじて形だけその場の雰囲気に合わせて、笑ってみせる。
 正直、このアルトの二つ下の後輩が、僕は少し苦手だった。嫌いなわけじゃない。冗談とはいえ自分で言うだけあって、かなりかわいい方だと思うし、明るい上によく気がつくところもあって、男声パートで話しているときも「かわいいよな」なんてよく話題に上る一人だ。
 だが。僕にとっては。
 彼女は……どこか、あいつに似ていた。だから、苦手だった。
 背が低く、少しぽっちゃりしていて、明るく元気なキャラ。要素を取り出し言葉にすれば、過ぎると言っていいくらい似ている。
 だがあいつではない。あいつとは、言いようもなく違う。
 部分部分が似ていれば似ているほど、言葉にならない差異は、むしろある種の忌避のような感情を、僕にもたらした。琴美にしてみれば失礼な話だとは思う。だが、彼女を前にすると、どうしてもまがいものをあいてにしているような感覚に襲われてしまう。
 あいつと付き合っている間、それはある種の罪悪感のようなものとして僕を責めさいなんだ。そして今では、もうあいつがいないと言う事実を、容赦なく突きつけてくる。
 あいつに似ているのにあいつではない。それは以前も今も、僕にとって一つの呪いのようなものだったのだ。
 章成はほどなく別のテーブルに行ってしまい、こっちには、隅で何か深刻そうに話している女子2人と、僕、琴美だけが残っていた。もともと、来てはみたものの皆と騒ぐ気になれず、隅の方に陣取っていたわけで、僕が取り残されたようになっているのは不思議でも何でもない。だが琴美はいつまで僕の前にいるつもりだろう。
 突然、琴美が一つため息をつき、言った。
「ていうかせんぱい、さっきから全然こっち見てくれないですよね」
「えっ? そう?」
「そうですよ。すぐ視線逸らして」
「いや、あんまりじろじろ見るのも失礼かと思って」
「嘘。避けてますよね」
「そんなことないって」
 内心鋭いなと思いながら、グラスの底に残ったビールを飲み干す耳に、こんな言葉が飛び込んできた。
「あーあ、せっかくせんぱいの前に座ったのにな」
「え?」
「せんぱい、カノジョと別れたんですよね?」
「えっ、なんで」
 あいつとは高校からの付き合いで、この合唱団と接点はない。そういう相手がいることは知られていたが、振られたことはまだ誰にも言っていないはずだ。
「見てればわかります。カバンのキーホルダー、外してあったし」
「え、そんなの知ってたの?」
 二つ合わせるとハートの形になるペアキーホルダー。誰にも指摘された事はなかったから、つけていた事自体知られていたとは思わなかった。
「知ってましたよ。今どき他につけてる人いないし。それに、ずっと見てましたから」
「えっ」
 琴美は、酔いのためかわずかに潤んだ瞳で真っ直ぐにこちらを見る。
「そういうことです、つまり」
「そういう……」
「言わせんな恥ずかしい」
 僕は、一気に冷酒を煽り手酌で継ぎ足す琴美を、呆然と見つめることしかできなかった。

「せんぱい! 待ちました?」
 柱にもたれかかってスマホを見ていた僕の腕を取って、琴美が言う。
「いや。そうでもないよ」
 僕は答えて、バッグを持ち直すふりをして彼女の腕をふりほどく。
「行こっか」
 そう言って歩き出すと、琴美が小走りで追いかけてきて横に並ぶ。また腕を絡ませてくるかと身構えたが、彼女は歩調を合わせた後も、接触してくることはなかった。
「何時からでしたっけ? 間に合いますか?」
「余裕。席とってあるし」
「よかった」
 あれから、琴美は急速に僕への距離を詰めてくるようになった。頻繁に話しかけてくるし、皆で食事や飲みに行く時も必ず誘ってくる。時には二人で出かけようと言ってくることもあったが、今日まで僕は断り続けていた。行く理由がなかったし、あの夜言われたことに僕は困惑したままだった。
 元々苦手だったし、なんで僕なんだ、という想いもあった。こんな僕なのに。あいつにとっては、価値などなかったのに。
 それはがいつの間に変化してしまったのか。行きたかった映画に誘われたとき、ふっと、断る理由がない、と思ってしまった。昨日までの戸惑いが、どこかに行ってしまったかのように。

「しっかしあのラスト、意外でしたよね〜」
 琴美が言い、僕は砂肝を咀嚼しながら無言で頷いた。
 小綺麗な焼き鳥屋。普段行く飲み屋に比べると少しばかりお洒落感があり、女子のグループやカップルの客が多い。自分たちも、傍目にはその中に分類されるんだろう、ぼんやりそんなことを考えた。
 映画を観たあとの興奮に後押しされるように、僕は食事の誘いまで、受け入れていた。断る理由が、うまく見いだせなくなっていた。一緒に過ごし、会話を重ねるごとに、苦手意識や、あいつとの違いがもたらす喪失感、不安や苛立ちのような感情は、少しずつ薄れていった。それどころか、彼女の屈託のない笑顔やあまりにストレートな好意の表現が、あいつのいない穴を埋めてくれるようにすら感じられてきた。
 もう、いいんじゃないか。
 僕は漠然と、そんなことまで考え始めていたのだ。
「あの、せんぱい」
 テーブルに並んだ料理がほとんどなくなり、お互い酒の減るペースが鈍り始めた頃、琴美が言った。
「このあと……よかったら」
 琴美は曲げた右手の人差し指の第二関節のあたりを、躊躇うように唇に当てた。
 一瞬、頭が真っ白になった。
 それはあいつが……口には出しにくい欲求を、暗に示すときの仕草だった。
 だからこそ、僕は琴美に、こう告げずにはいられなかった。
「今日はもう帰るよ。楽しかったよ、ありがとう」

 琴美はあいつと似ていた。似ていすぎた。
 それを、その仕草が……かつてたまらなく愛おしいと思えていた、あいつと同じ仕草が、思い出させていた。
 琴美が同じことをしても、自分がかつてのような甘いときめきを全く感じないという、その事実とともに。
 苦手意識は消えていた。今日一日で、僕は琴美のことを、好ましいとすら思うようになっていた。だが、そうであればあるほど、この好ましさには欠けたものがあると、自覚せずにはいられない。あいつには感じたものを、琴美には感じることはできないのだと。
 そのことが、状況に流されそうになっていた僕を引き戻していた。
 琴美が入っていったばかりのマンションの入り口に背を向けながら、僕は考える。
 あいつも、こんな気持ちだったんだろうか。
 未練を滲ませた琴美の表情が脳裏に蘇る。
(ときめかない好き、か……)
 苦い想いとともに、かつてわからなかったその言葉の意味を、僕は噛み締めた。

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