日本語文化は大切にしたい

昨今、日本語が乱れていると言われるようになって久しい。いわゆる「ら抜き言葉」や「さ入れ言葉」などに代表されるように、本来の文法から逸脱した使い方がなされるような日本語表現が見られる。

とはいっても、古くは平安時代からたとえば「あはれ(あわれ)」のように、本来は美しい、かわいいものなどを意味していた言葉が時代とともにかわいそう、情けないなどといった否定的なニュアンスに変わってきているように、これは「乱れ」ではなく「変化」であり、むしろ歓迎すべきことと言われることもしばしばある。文化庁の文化審議会国語分科会でも、日本語の文法や言葉遣いについて、以下のような見解を示している。

私たちは,一人一人が異なる存在である。とりわけ現代は価値観が多様化し,共通の基盤が見付けにくい時代になっている。こうした「多様な私たち」を前提とした社会で生きていくためには,コミュニケーション,特に言語コミュニケーション(言葉による伝え合い)によって,情報や考え,気持ちを互いにやり取りし,共通理解を深めていくことが欠かせない。
言語環境が大きく変化する中で,何をどのように伝え合うことが望ましいのか,これは,複雑化した今日を生きる私たちの多くが抱える悩みである。
コミュニケーションにはいつでも通用するような正解があるわけではない。しかし,より望ましい方法は,きっとあるはずである。文化審議会国語分科会は,特にそのうちの言語コミュニケーションにおいて意識すべき大切な要素として,「正確さ」,「分かりやすさ」,「ふさわしさ」,「敬意と親しさ」の四つを掲げる。これらを手掛かりとして提示し,言葉によって分かり
合うための工夫を共に考えていきたい。

つまり、複雑かつ多様化した社会において、伝え合う言葉は多様に変化し、分かりやすくしかも正確、その場に応じた使い方を工夫をしていくことが大切という。

とはいっても、世代間で「ら抜き言葉」や「さ入れ言葉」さらには「若者言葉」「過剰な敬語表現」は絶えず批判と容認が繰り返されており、教育現場においても混乱が生じている。

このことについて私は教育現場においては、本来の正しい日本語表現は最低限身に付けさせることは必須であると考える。今ではこういった言葉遣いも多様化の社会で許容されつつあり、自由であっていいという考え方が広まっているが、やはり基本的な日本語表現を知っておいた上で、くだけた表現を使ってもよい場面か、改まって使うべき場面かを適切に判断できるようにはしたいものである。子供たちの間で相手を敬い、尊重する心を養うためにも、国語科の他さまざまな場面で正しい日本語表現を、教師自ら率先して使うよう洗練していくことが大切である。

教師が使う言葉遣いは良しにつけ悪しきにつけそのまま子供が真似をする。教師だけではない。親が「汚い言葉遣い」をすればすぐ真似をする。努々気をつけなければいけない。

たとえば、初めて会う人に対して「~と申します」と自分をへりくだって言うところを「~と言います」や、ものを指し示して「こちらでよろしかったでしょうか」、「こちらにあります~は」などこれはどうなのかという表現もいくつか、実際の職場などで使われている。これらの表現は相手によっては不快に感じることもままあるので、特に気をつけたいものである。

日本語表現の中で最も特徴的なものとして「敬語」表現が多種多様であることが挙げられるだろう。農耕民族でお互いに助け合って暮らしてきた民族であるため、お互いを尊重し敬う文化が育った日本ならではである。敬語に当てはまるような表現は他の言語にはほとんど見られない。

最近では敬語の簡略化が進んできたものの、やはり世代によっては違和感がある表現もある。先に示した「~と言う」という表現はその典型例だろう。

しかしながら、私がこれは絶対譲れない敬語表現がある。それは「皇室の方々に対する敬意」を示す表現である。

マスコミを中心に、「~さま」を多用しているが、本来は「天皇陛下」「皇后陛下」「上皇陛下」「皇太后陛下」「~親王殿下」「~内親王殿下」と敬称でお呼びしなければならない。これは法律で定められていることなのでそうすべきである。敬意を表することができるならどのような敬意表現でもいいのかというと、そうはならない。時代が変わろうとも、皇室に対する敬意を表すために敬語を簡略化して良いわけがないと思っている(※あくまでも私見)。

それから、日本語表現の手法で大切な要素として漢字・ひらがな・カタカナがある。

小学校段階でまだ習っていない漢字がある場合はやむを得ないとしても「交ぜ書き」は禁忌とされている。交ぜ書きとは漢字とひらがなが混在する言葉である。「障がい者」がその代表例である。この使い方は本来間違いである。ある集団が「害は悪いイメージを与えかねない」という非常に奇妙な説を唱えて広まったものである。元々あった言葉を変な理屈をつけてねじ曲げるのはおかしい。「害」という字が嫌なら本来の意味に近い漢字として「碍」がある。こちらは「さまたげる」などの意味があり、身体の動きがままならないなど、状態を表す漢字であり、そちらを採用すれば良いのであるが、残念ながらこの漢字は「常用外漢字」でどの学年でも習わない、つまり「教育漢字」ではないのである。こういったことから、国の漢字政策もさらなる見直しを図ってもらいたいものである。

また、漢字は何年生で何の漢字を習うかという指標は非常に面倒くさい(※私見)。私は何年生であっても、漢字は自分の名前でも日常的にでも使われているのだから、そういう制限を撤廃して、漢字に大いに触れさせることがあっても良いのではないかと考える。1年生でも6年生で習う漢字は指導次第で覚えてしまう子供もいるかもしれない。

今ではあまりいないと思うが、かつて教師が「この漢字は当該学年で習わないから×をつける」という事例がネットに上がっていた。これはさすがに極端と言わざるを得ない。逆に子供の学習効果を減じさせてしまう恐れもある。子供の国語力を向上させたいのなら、使える漢字を大いに増やして、語彙力を高めたり、言語活動を通して表現力を深める活動をやるべきである。そういう授業の工夫をしたいものである。

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