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道徳科と修身教育

 道徳科(特別の教科・道徳)が新設されたのは平成27年改訂の学習指導要領から、施行は平成30年(小学校)からである。

「特別の」とある通り、道徳科は他の教科と性格が異なり、学校の教育活動全体で行う道徳教育の要の役割を有し、数値による評価を行わない。どの程度学力が身に付いたかを測る教科ではなく、児童生徒の心、内面にいかに道徳的諸価値が入っていくか、行動変容をしていくかに焦点を当てて行う。

 「特別の教科・道徳」の目標は以下の通り。

 よりよく生きるための基盤となる道徳性を養うため,道徳的諸価値についての理解を基に,自己を見つめ,物事を(広い視野から)多面的・多角的に考え,自己(人間として)の生き方についての考えを深める学習を通して,道徳的な判断力,心情,実践意欲と態度を育てる。

 よく比較して語られる、戦前行われた修身科について触れてみようと思う。

 道徳科の理念はそのまま修身科の精神を引き継いでいるともいえる。
 戦前、修身は他の教科より上位に位置し、最重要教科に位置付けられていた。しかし、終戦とその後の連合国総司令部(GHQ)の教育改革で、「修身・国史・地理に関する授業の停止」命令により廃止させられた。理由は「日本の軍国主義を助長したから」ということだった。

本来教育とは「ヒトを人足らしめるために行う」ものであり、知識を教え込むだけが教育ではない。人としての在り方を究める、国家や社会全体がよりよくなるために個々人が心を作ることがまず必要である。

 福沢諭吉が著した「学問のすすめ」には以下のような文章がある。

 学問とは、ただむつかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。これらの文学も自ずから人の心を悦ばしめ随分調法なるものなれども、古来世間の儒者和学者などの申すよう、さまであがめ貴むべきものにあらず。古来漢学者に世帯持の上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人も稀なり。これがため心ある町人百姓は、その子の学問に出精するを見て、やがて身代を持ち崩すならんとて親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。畢竟その学問の実に遠くして日用の間に合わぬ証拠なり。
 されば今かかる実なき学問は先ず次にし、専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。譬えば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言、帳合の仕方、算盤の稽古、天秤の取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条は甚だ多し。地理学とは日本国中は勿論世界万国の風土道案内なり。究理学とは天地万物の性質を見てその働きを知る学問なり。歴史とは年代記のくわしきものにて万国古今の有様を詮索する書物なり。経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。修身学とは身の行いを修め人に交わりこの世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり。

 どんなに知識が豊富で、技術が豊かであっても、人として非常識であったり、犯罪を犯すような愚かな心を持っていては、社会の中で生きていくのは困難であると言わざるを得ない。

 その意味で、修身もその後を引き継いだ道徳も、いつの時代にあっても必要不可欠な教育なのである。

 時々、道徳など不要だ、止めるべきだという意見も散見する。また、道徳・修身=悪だという意見も見る。それぞれ理由があるのだろうが、決して疎かにできない、最も重視すべき教科であると私は考えている。

 確かに修身に至っては、本来の役割を外れて間違った方向に使われてしまったことは否めない。戦後の修身「アレルギー」はそこから来ていると思う。教育勅語も同じである。

 明治維新後、世の中は急速に欧米化が進み、豊かになっていくに従って、文化的退廃が進み、また、旧士族の反乱が相次ぎ、政治的な混乱を来していた。そこで明治政府は学制発布をはじめ、(自由)教育令、(改正)教育令を発布し、教育の近代化とともに道徳教育の充実を図ろうとした。

 しかし、実際には教科書とよばれるものは西洋の翻訳書を利用しただけのものであったり、教師による口授によって行われるなど、必ずしも成果を上げることはなかった。

 学校教育制度に批判的な国民がまだ多かった当時において、こと道徳教育に関する厳しい批判があった。そこで政府は明治12年、「教学聖旨」を渙発し、以降西洋の道徳書の翻訳本の使用を禁止し、維新以来の西洋化への憂慮、日本古来の儒教主義的道徳観を確立しようとした。この「教学聖旨」は明治天皇の勅により出されたものであったために、その影響はすぐに現れ、以後教育勅語の渙発に至る流れが生まれる。

 しかし、この流れは必ずしも万民に受け入れられたとは言えず、伊藤博文(後の初代内閣総理大臣)など開明派と言われる官僚はこの儒教主義的道徳観の醸成には反対を示し、いわゆる「徳育論争」が起こっている。

徳育論争についてはWikipediaに詳しい。以下に引用する。

徳育論争(一部抜粋)
 早くは、先に述べたように伊藤博文が『教育議』によって儒教主義的教育への回帰に反発し、また、福沢諭吉も1882年(明治15年)に『徳育如何』という論文を発表して、「道徳教育は国民の自主的な議論に基づいたものであるべきだ」と反論を加え、「儒教主義的教育の根源となっている信仰や服従の精神」を批判した。また、西村茂樹も『日本道徳論』(1887) で「儒教は『やってはいけないこと』ばかりを教えており、自主性が育たない」と指摘した。なお、先に述べたように彼は修身科教科書として『小学修身訓』を書いたが、これは西洋と東洋の哲学・倫理観をうまく組み合わせて折り合いをつけようとしたものであって、儒教主義一辺倒のものではなかった。
 初代文部大臣であった森有礼もまた、このような儒教主義に批判的立場にあった。彼は道徳教育に「自発性」を求め、忠孝道徳の暗記を強要する儒教主義には限界があると主張し、1887年(明治20年)に刊行した『倫理書』で「自分と他人は常に助け合って生きている」という自他併立の倫理観を発表した。また、道徳教育は修身科によって言葉で教え込むよりも、体育のような「体で覚えさせえる」教科によって行われるべきだとした。また、別の立場・主張も存在した。例えば、杉浦重剛は『日本教育言論』(1887)の中で、儒学と洋学を基礎として日本古来の倫理観に基づく道徳教育をすべきだと主張した。
 また、加藤弘之も1887年(明治20年)に『徳育方法案』を発表し、「道徳教育を宗教の中に求める」ことを主張した。彼によると、道徳教育において一番大切なのは「愛国心」を育てることであり、そのためには儒教だけではなく、神道、仏教、キリスト教なども組み合わせて教育を行うべきであるとした。
 このように1880年代に起こった道徳教育に関しての議論を「徳育論争」と呼ぶが、能勢栄はこの様子をみて、「どの論も甲乙付けがたく、限りがない」といったという。そして、彼はこの徳育論争のまとめとして1890年(明治23年)に『徳育鎮定論』を刊行した。その内容は、洋学主義や儒教主義といったような「ただ1つの主義を決めて道徳教育をおこなう必要はない」と主張し、日本人が昔から持っている「コモンセンス」を大切にして道徳教育を行うべきだというものであった。
 このように、道徳教育に関する議論は収束することなく、混迷を極め、1887年(明治20年)に教科書によらないように「小学教則」が改正されると、修身教育は無軌道に陥った。
 しかし、結局、『教育聖旨』という天皇の名によって発せられた方針に抗うことはできず、その儒教主義的な教育内容を変えることはできなかった[33]。 さらに、1889年(明治22年)に森有礼が暗殺されると、政府内部からも森への批判が表面化することとなる。こうして、その翌年の1890年(明治23年)には『徳育涵養ノ義ニ付建議』が提出され、『教育勅語』の渙発がなされると事態は解決を迎えおおむね儒教的思想に基づいた内容となった。

 明治天皇はこと教育に関して非常に関心を持たれ、また憂えられたと言われる。昭憲皇太后は明治天皇の意を体して女子教育に力を入れられた。

 国が乱れる元は、人心の荒廃にあるとされるのは古今東西不変の原理であり、その根幹にはやはり道徳・修身教育が重視されているか否かによると考える。

 今まさに犯罪が多発し、社会が混沌としているのは道徳教育が充実していないからに他ならないのではないか。

 とはいえ、道徳教育に関する対立意見があることも確かである。国家による道徳教育の押し付けにならないか、教師個人の思想、姿勢が良い影響を与えるか否かなど、議論の余地はある。


 道徳観や道徳心は個々人の「良心」によるところがあり、何人も他の価値観の強要は受けない権利は当然あるとも思う。しかし、他者や帰属する社会の中で生きている以上、自分本位の道徳的価値観だけでいることはできない。

 そのことからも、修身教育が本来持っていた精神、すなわち公的立場から見る自身の身の修め方、道徳教育で目的とするさまざまな道徳的諸価値は今でも、どの教科よりも重視すべきことではないかと私は考える。

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