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「かわいそう」という武器

世の中は大人権時代だいじんけんじだいになりました。
あれ、これは先進国だけの話だろって?まあ、そうですねえ。でもぼくもこの読者もおそらく日本人だと思うので、我々の住む先進国の世の中ということにしておきましょう。日本は先進国じゃなくて衰退途上国だろとかいうツッコミはめんどくさいのでなしで

とにかくこの大人権時代において、差別や格差が存在することは悪いことですよね。
差別をなくそう、格差を減らそう、虐げられてきた人々に救済を…みたいなことがリベラルたちによって叫ばれている。特に自分をリベラルだと思ってない一般人もやんわりそう思ってるんじゃないでしょうか。

ついこないだも温泉むすめがフェミに燃やされたように、行政や富裕層といった権力側も言動をミスるとあっという間に集中砲火を浴びるようになりまして。さすがに国とか自治体はこの集中砲火にわりと耐えてる気はするけど個人とか企業とかはひとたまりもないですネ。

そして彼ら/彼女らの努力の甲斐あって「かわいそうな境遇にある者に対する配慮」がなされるようになりますね。弱者救済ですね。格差是正ですね。差別撤廃ですね。

そしてそれは多少は達成されている気もします。

でも、現実として、

「かわいそうな境遇にある者」って、「弱者」とイコールではないだろ?

というのが今回の言いたいことです。

大きな黒い犬問題というの(リンクは英語版ウィキペディア)をご存じですか?
ざっくりといってしまうと動物の保護施設で大きくて黒い雑種の犬は引き取り手が見つからずに残ってしまう(そして最終的には殺処分されてしまう)という現象のことですね。

なんだっけ、絶滅危惧種を保護するプロジェクトかなんかのパンフレットの表紙写真はいつも可愛い動物であってゴキブリみたいな昆虫ではないし、貧しい国で貧しい暮らしをしている人々に支援を呼びかけるプロジェクトで掲げられる写真はいつも小さな女の子だというのと同根みたいなのを読んだ気がする。

小さくて白い犬だとか可愛い動物だとか子どもだとか女性だとかいう属性(しかもそのほとんどは努力では覆しようのないもの)を持っていることで支援を受けやすくなるということですね。

つまり、

かわいそうであることは、優先的に支援を受けられる能力であり資産である

ということになりますね。
同じ状況に追い込まれている弱者でも、人々に「かわいそうだ」と思われにくい属性を持っていると、支援は望めない。そうなったのは自己責任だろ、などと言われる始末。

でも、

かわいそうな弱者に優先的に支援をして、かわいそうでない弱者には支援を与えないの、それはそれで差別なんじゃないの??

なんなら、「かわいそうと思われる属性を持っていること」が一種の武器なのだから、同じ境遇なのにそういう属性を持たない者の方がより弱者なんじゃないの?そっちを救済しなくていいの???

と思うんですよねえ…どうですか?

そりゃあ社会が個人のお気持ちの自由を抑圧するのは古臭くて差別的で理不尽かもしれんけど、
個人の権利を認めれば認めるほど、「お気持ちによる差別」が起こるのは当たり前だろうよ。それは誰かに救いの手を差し伸べる時に、その相手を選ぶ自由でもあるもんな。

旧来の権力格差がなくなっていっても、優しくする相手を選ぶ自由、相手の優しさを拒絶する自由があるのなら結局は「多くの相手に優しくされる者」と「誰からも全く優しくされない者」、しまいには「優しくされないどころか誰かに優しくしてもそれを拒絶され加害行為だとみなされてしまう者」に分かれてしまう、いわば「やさしさ資本主義」になるだけじゃんね。

となったら、やっぱり「お気持ちによらない、機械的な救済」は必要だと思いますね……
ホームレスや自殺が男性に多いのとか、DV被害者に対する保護が女性に偏ってるのとか、発達障害者への支援が小学生以下に偏ってるのとか、明らかに女性や子供に「お気持ち救済」が偏ってるからでしょ。なんだかなあ。

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