短編【そして俺は闇の中へ】小説
ルポライターの篠原準子が日本にいると知ったのは彼女が帰国してから一週間を過ぎた頃だった。
帰ってきているのなら、どうして連絡をよこさないんだ。
「どうしちゃったんだろうね、準子ちゃん。足跳さん、何か知ってる?」
歴史小説家、白石文美子先生の次回作の打ち合わせの席で彼女の話題になった。
一週間ほど前、紀伊国屋書店をうろうろしている篠原を見た、と白石先生は言った。
その時の様子が夢遊病者のようだった、と。
俺は、その時はじめて彼女が帰国している知った。
ブルックリンから帰って来ているなんて、全く知らされいなかった。
担当編集者として、これほど恥ずかしい事はない。
篠原準子が次のルポタージュとして選んだのは『フィッシャー一家襲撃事件』だった。
1960年代、公民権運動の末期に起こった殺人事件。
白人でありながら奴隷解放運動に加わったアンドレイ・フィッシャーとその一家が惨殺された事件だ。
ブラックパンサー党の犯行とも、クー・クラックス・クランの犯行とも言われていて非常に謎が多い。
そのフィッシャー家の唯一の生き残りアンジェリカ・フィッシャーの取材のために彼女はブルックリンへ飛んだ。
彼女がどのような経緯でフィッシャー夫人とアポを取ったのかは知らない。
俺は白石先生との打ち合わせが終わってすぐに篠原準子に連絡を入れた。
電話をしてもLINEをしても彼女からの返事はなかった。
青梅市の外れにある篠原準子の自宅を訪ねたのは、その日の日暮れだった。
築五十年の庭付きの小さな一軒家に彼女は一人で住んでいる。
「篠原先生。足跳です。入りますよ」
玄関は開いているのにが返事はない。
俺は勝手に家に入りリビングを抜けて書斎に行った。
そこに篠原準子はいた。
書斎に入った瞬間、俺はその異様さに息を呑んだ。
いつもなら本棚に綺麗に収まっているはずの本がほとんど床に散らばっている。
そして書斎の窓際に置かれている文机に座って彼女は何かを書いている。
その後ろ姿は……全裸だった。
「先生……篠原…先生」
「あ、足跳さんですか。私、ようやく書くべきものが見つかりました」
振り向きもせず、彼女はそう言った。
「何を」
「ラヴクラフトです。ラヴクラフトの事を書きます。彼の言葉がどんどん入ってくるんです」
ラヴクラフト。
ハワード・フィリップス・ラヴクラフト。
1920年代に『クトゥルフ神話』を生み出したアメリカの幻想小説家。
彼が創った宇宙的恐怖は、菊池秀行や栗本薫など多くの小説家が受け継ぎ、漫画になりアニメになりゲームになり、密かなブームになっている。
「密かなブームでは駄目なの。もっと多くの人に知ってもらわなければ。それがラヴクラフトの、旧支配者の意思。あの日からもう直ぐ百年。…2023年は百年の終わり…そして次の百年の始まり……」
篠原は振り向くと草稿の束を差し出した。
俺はそれを受け取って読む。
ボールペンで殴り書かれた文章は、とても読めたものではなかった。
だが、その文字のひとつひとつが俺の脳に染み込んでゆく。
クルウルウー、クルウルウー、我が名を知らしめよ、ルルイエの底より眠りしクルウルウー、暗雲たる運行は陰鬱なる余韻鵺の秘めたる悲鳴に明朗な我も滅入ろう嗚呼曇天はいずれ破れ粘り気の雨が降る粘り気の雨に濡れて涙も雨情と化すウングルイ、ムグルウナフ、クルウルウー、ルルイエ、ウガフナァグゥル、フタグンふんぐるいむぐるうなふくとぅるうるCthuるいえうがlhuなぐるふtaぐん!イア!イア!CthulhuCthulhuCthulhuuuuu…うuuうuuuうううぐわわわ!!
頭の中で雷鳴が鳴る。
俺は草稿の束を宙に投げ捨てた。
舞い落ちる原稿用紙の隙間から笑っている篠原準子の顔が見えた。
「あなたは“呼び声に応える者”ではなかったのね」
割れる!頭が鳴る!雷鳴!雷鳴!ああ!
消える!イア!イア!意識が!雷鳴!ああ!
イア!イア!クルウルウー!フンタング!
イア!イア!クルウルウー!フンタング!
そしておれはやみのなかへ……。
⇩⇩別の視点の物語⇩⇩
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