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短編【墓穴と月影】小説

私の夫は浮気をしている。
私が実家に帰って何日か家を空けている間に夫がこの家に女を連れこんだ。

そう隣のご婦人が教えてくれた。
母が体調を悪くし、その看病やら何やらで私が家を空けている隙に。
まだ、あの女と切れていなかった。

私は暗い部屋で包丁を握りしめた。
窓枠から差し込む満月の明かりが包丁を冷たく照らす。
禍々しいほどに真っ赤だった満月は、いつの間にか冷たい色に変わっていた。

私は直ぐに突きつけられる様にキッチンシンクに包丁をそっと隠した。
もちろん夫を殺すつもりはない。
そこまで私の精神は追い詰められている。
その事を夫に知って欲しかった。
ただ、それだけだったのに。

「ただいま…おい。どうした。明かりも付けないで」

仕事から帰ってきた夫は薄暗いリビングキッチンで一人椅子に座っている私を見た。
怪訝に思ったのか、その声色は動揺していた。

「ねぇ、あなた、まだ続いてるの?」
「何」
「まだ、続いてるの?」
「何が?」
「あなた言ったよね。もう二度と会わないって。約束したじゃない。ねぇ?そう約束したよね?」

夫は、いい加減にしてくれよと言いたげにスーツを脱いでソファの背もたれに掛けた。

「またその話かよ。もうさんざんやったじゃないか。あの女とは別れたよ」
「嘘よ」
「いい加減に‼︎…しろよ。…もう、飯は良いから、風呂入って寝るよ。こっちは仕事で疲れてんだよ。全く……」
「ちょっと、待ちなさいよ!まだ話は終わってないわよ!」
「おい!・・・大きな声を出すな。モモが寝てるだろ」
「モモちゃんは実家に預けたから居ないわよ」
「実家って、お義母さん具合悪いんだろ?そんな所に預けて」
「姉さんも居るから大丈夫よ」
「だとしても」

私はキッチンシンクから包丁を取り出した。

「…なんだよソレは………」
「何よ…」
「その包丁は何だって言ってんだよ。置けよ。」
「あの女と別れた?ねぇ。どうしてそんな嘘を付くの?最近のあなた、ちょっと変よ?私が話しかけてもいつも上の空で。どうせ、あの女の事を考えてたんでしょ?私、知ってるんだから」
「何を知ってるんだよ……。お前、何を知ってるんだ」
「ほら、狼狽した!やっぱりそうなんだ!三日前、私が実家に帰った日よ!その時、あなた、あの女をこの家に呼んだでしょ!」
「どうしてそれを…」
「お隣の奥さんから聞いたのよ!夜中に若い女がこの家に入って行くのを見たって!」

夫の顔色がみるみる変わって行った。
私は心のどこかで勘違いであって欲しいと思っていた。
夫の事を信じたいという気持ちが僅かながらあった。
だけど、その微細な希望も夫の態度を見て虚しく消え失せた。

「そ、そんな嘘だろ…見られてたのか」
「見られてたって………。ホントなの?どうしてよ!もう二度と会わないって言ったのに!よりによって私が居ない隙にこの家に呼んで!信じられない!」
「ちょっと待て!別れ話をしてたんだ!本当だ!信じてくれ!俺はここで!あいつと別れ話を!」
「だったらどうして最初からそう言わないのよ!どうして隠すの!もしかしたら別れ話をする為にあの女をこの家に呼んだかも知れないって、私も思ったよ!でもあなたは何も言わなかった!やましい事をしたからでしょ!結局、まだ別れてないんでしょ!」
「話を聞いてくれ。人には言えない事情が有ったんだ。本当に別れ話をしてたんだ」
「言えない事情ってなによ!どうして隠すの!別れ話の為にあの女を呼んだなら呼んだって言えばいいじゃない!別れ話をしたって言えばいいじゃない!言わないって事は別れられなかったって事でしょ!」
「だから話を!」
「もう限界よ!」
瞳都美ひとみ、落ち着け」
「馬鹿にしないでよ!!」

なだめようと近づく夫に包丁を向けて、私は思わず薙ぎ払った。

「お、お前…ちょっと…何で…」

そんなつもりは当然無かった。
包丁の先が綺麗に夫の喉を切り裂いていた。

もしかしたら、直ぐに救急車を呼べば、あの人は助かったかもしない。
本当に殺すつもりはなかった。
私は倒れた夫と血で染まった床を長い間ながめていた。

二時間ほど呆然としていた私は夫を庭に埋める事にした。
私の顔にかかった夫の返り血も、すっかり乾いていた。

私は庭に出て掘りやすい場所を探した。
一箇所、明らかに柔らかい地面があった。
その穴の中から、若い女の死体が出てきた。
その女は夫の浮気相手だった。
その時、私は、あの人の言葉を思い出した。

「話を聞いてくれ。人には言えない事情が有ったんだ。本当に別れ話をしてたんだ」

冷たい淡黄蘗うすきはだの満月が、いつまでも私を照らしていた。


⇩⇩別の視点の物語⇩⇩

淡黄蘗の月

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