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短編【ネコミミパンダのチャーム】小説

どうして彼女にだけ視線が行ってしまったのか。その理由を探してみても今となっては分からない。そもそも理由なんてなかったのかも知れない。

あの人はバス停のベンチに腰掛けていた。

彼女だけがぽつんと一人で座っていたというのなら気に留めてしまったとしても理解はできる。

だけどバス停には彼女以外にも人がいたのだ。三人掛けのベンチには彼女の他に足を大股に広げ右足を小刻みに揺らしているスーツ姿の男が座っていた。

そのベンチの傍には参考書を読んでいるロングヘアーの女子高生が立っている。まわりに気を遣って少し離れたところで煙草を吸うOLらしき人もいる。何かがパンパンに詰まったカーキ色のナップザックを背負った長身の男もいる。

それぞれ立ちながらバスを待っている。

貧乏ゆすりをしているスーツ姿の男は何かぶつぶつ呟いている。女子校生はネコミミパンダのチャームをこれでもかとカバンに付けている。OLらしき人は煙草を一本吸い終わると直ぐにもう一本とりだして火をつけている。長身の男のカーキ色のナップザックは何故か底が赤黒く濡れ染まり液体が滴っている。

僕の視界に入っていた五人の中で彼女だけが特徴のない存在だった。それなのに僕は彼女が気になって仕方がなかった。

目を見張るほど美しいというわけでもなく。
目に余るほど醜いというわけでもなかった。

程なくして僕が待つ105番下条鷹宮線がやってきた。そのバスに急いで煙草を携帯灰皿にねじ込んだOLと参考書をカバンに仕舞い込んだ女子高生と、そして最後に僕が乗り込んだ。

バスの座席は車道沿いの左側しか空いていなかった。そのためバスの窓から彼女を見ることは出来なかった。唯一ひと席だけ空いていたバス停側の座席は先に女子校生に取られてしまったのだ。

最後に彼女の姿を見る事が出来ずバスはそのまま走り出した。それが残念だった。

ところが。

翌日、僕はふたたび彼女の姿を目撃した。僕の家から歩いて五分ほどの場所にあるパン屋さん『おおみや菓子店』の店内にいる所を偶然見かけたのだ。

『おおみや菓子店』は僕が小さかったころ、たぶん五歳くらいの時までは洋菓子店だったと記憶している。それがいつしかパン屋さんに変わっていた。母から聞いた話によれば息子の代になって洋菓子はやめてパン屋になったらしい。

店の一角には洋酒の販売コーナーがいつの間にか出来ていて、いずれ酒屋になるんじゃないかと父が嬉しそうに言っていた。

そんなパン屋さんで彼女を見かけてしまった。

僕は『おおみや菓子店』を通り過ぎながら、お店に入ろうかどうしようか悩んでいた。悩みながらも歩みを止める事なく歩き続けた。

『おおみや菓子店』がどんどん後方に遠ざかってゆく。

コンビニエンスストア『リトルエレファント』の角を曲がってだいぶ歩き進んだとき僕は不意に立ち止まった。

やっぱりもう一度彼女の姿を見たい。話しかけたいわけではない。僕の存在を知って欲しいわけでもない。

ただ、彼女の姿をもう一度見たかった。

僕は踵を返して、いま来た道を走り戻った。リトルエレファントの角を曲がり、おおみや菓子店に着いた時には。

彼女はもう居なかった。

久しぶりに全速力で走った。少し間をおいて汗がじわりと滲み出てきた。二度大きく深呼吸をして僕はあたりを見渡した。だが、彼女の姿は無かった。

そして二度と彼女を見かけることはなかった。


「どうしたの?」
「ん?いや。なんでもない」

三年前に潰れてしまった『おおみや菓子店』の錆びついたシャッターを見ながら、すっかり忘れてしまった数十年前の思い出が蘇ったとき妻になる人が僕に話しかけた。

彼女が持っていたクロエのハンドバッグには不釣り合いのネコミミパンダのチャームが揺れていた。

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