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短編【あおむし】小説

どこから入り込んだのか俺の部屋の壁に一匹の青虫がいた。木目を模したベニアの壁に一匹の青虫がへばりついている。ゴキブリ以外の生き物を見たのは久しぶりだった。俺はゴミ袋からポリスチレンの弁当箱を拾って、そいつを弁当箱に入っていた食べ残しのキャベツの上に置いた。

ネットで調べると、どうやらモンシロチョウの幼虫のようだった。モンシロチョウの幼虫はアブラナ科の植物の葉を食べると書いてあった。たまたま弁当箱に入っていた食べ残しのキャベツはアブラナ科だ。俺はゴミ袋に入っている他の弁当箱の中のキャベツやレタス、その他アブラナ科に属する野菜の葉っぱをかき集めて青虫と一緒に弁当箱に入れた。

しばらく観察していたが、青虫は足物のご馳走に気づかないのか頭を右へ左へふり、何かを探すようにのろのろと歩き回る。弁当箱に入っていた肉汁や調味料などの匂いがキャベツに付いているから食べないのだろうか。だけど、それを食べなければ、お前は死ぬ事になるんだぞ。

何故なら俺はこの部屋から出る事はないのだから。

親の期待通り勉学にはげみ、親の期待通りの大学に行き、親の期待通りに銀行員になり、親の期待を裏切ってストレスに負けた。そして引きこもり。腐るほどよくある話しだ。初めの一年は、まだ親ともコミュニケーションを取ってはいたが、今では食事の差し入れとゴミ袋の排出の時に母親の顔を見るくらいになった。食事もいつしかコンビニの弁当になった。父親の顔は一年以上見てはいない。

朝、青虫はキャベツを食べていた。

「母さん」
朝食のコンビニ弁当を持ってきた母に俺はドア越しに話しかけた。母は、え?と驚きの声を出した。久しぶりに聞く声だった。

「なに?」
「キャベツが、欲しいんだ」
「どうして?」
青虫の餌にするんだ。そんな子供じみた事を言うのが恥ずかしかった。何て返答しようか迷っていると

「わかった。キャベツね。サラダでいいの?それとも炒める?」
「いや!生で。サラダでいいよ。あ!キャベツだけで。ゆで卵とかハムとは、そんなのは入れないで」
「わかった」
母の声は少し嬉しそうだった。

その日の昼ご飯は母の手作りだった。もちろん、キャベツだけのサラダもちゃんと有った。

青虫の飼育は清潔さと室温に気を使えば、わりと簡単だった。エサの水分をティッシュで拭き取り、糞の始末をする。青虫はキャベツをもりもり食べてどんどん大きくなった。二回ほど脱皮を繰り返して元の1.5倍くらいの大きさになった。そして、ある日、青虫はピタリと動かなくなった。

いよいよ蛹になるのか。そこからモンシロチョウが生まれてくるのか。モンシロチョウがこの部屋から飛び立ったら俺もこの部屋を出よう。そう思った。

引きこもりから抜け出したのは青虫が蝶になるまで育てたからです。陳腐な理由だという事は分かっている。人に話すには恥ずかしすぎる幼稚な理由だ。

でもいい。理由なんてどうでもいい。ただ、きっかけが欲しかったんだ。俺自身、もうこの生活から抜け出したかった。情けなかった。やり直したかった。二十六歳の引き篭もり男が、一匹の青虫を育てて世間に旅立つ勇気を貰った。そんな子供じみた話があってもいいじゃないか。

俺は、蛹になろうとしている青虫の観察を続けた。時間はいくらでもあった。

動かなくなった青虫の薄緑色の体内に何かが蠢いている。それが蛹になる準備だと思っていた。やがて青虫の皮膚がいくつもいくつも、ぽつりぽつりと盛り上がり、裂けた。

そして、そこから長虫が出てきた。俺は唖然と見続けた。青虫はべつの何かに寄生されていたのだ。十匹以上の白い長虫が青虫から這いずり出る。まるまると太っていた青虫は皮膚だけになりすっかり萎んでしまった。その抜け殻を長虫たちは競って食べ尽くす。

アオムシコマユバチ。それが寄生虫の名称だった。俺は観察を続けた。アオムシコマユバチの幼虫たちは一箇所に集まり一つの繭を作った。それからしばらくして成虫のハチが出てきた。

おぞましくもたくましい寄生虫。俺も寄生虫みたいなもんだ。モンシロチョウに自分を投影して綺麗事にしようとした自分が恥ずかしかった。

俺は何年振りかに窓を開けた。気持ちのいい朝の匂いだった。アオムシコマユバチたちは部屋の中を何度か飛び回って開いた窓から外へ出て行った。

散歩にでも行ってみるか。

母が作りたての朝御飯とキャベツだけのサラダを持ってきてくれた時、何故か、そう思った。

何故そう思ったのか。

理由なんてどうでもよかった。


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