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短編【私使い】小説

幼年の頃は僕と言い、青年になって俺と言い、社会に出て私と言う人がいる。幼年の頃は俺と言い、青年になって僕と言い、社会に出て私と言う人がいる。あるいは僕のまま大人になって突然、私と改める人もいれば俺のまま大人になって私と改める人もいる。

男性で自分の事を『私』と称する人の経緯は基本的に、この四通りがあると思う。

『俺』には人を見下すニュアンスがあり『僕』にはへりくだりの精神がある。

ところが『私』にはイメージにバラつきがあるように思う。

冷たい感じのする『私』を発する人もいれば、温かみのある『私』を発する人もいる。共通するのは知的であるということだ。

知的だから『私』と言うのか。知的に見せたくて『私』と言うのか。

おそらく。

これは非常に偏見じみた考えではあるが、おそらく幼い頃から『俺』の文脈で生きてきた男が発する『私』の温度は低く『僕』の文脈で生きてきた男が発する『私』は温かみのがある。

その伝で言うのならば、瀬島せじま部長は間違いなく『俺』の文脈の人だ。子供の頃から社会人直前まで『俺』と称して突然、一人称を『私』に言い変えた、ごりっごりの『俺』系の『私使い』に違いない。

「私は50部をふたつと言ったんだ。なんで50部しかない」

瀬島部長の温度の低い渇いた叱責が新入社員、綾部美香あやべみかを萎縮させている。綾部さんは清潔感のある綺麗で長い髪を垂らしてうなだれている。

「君はコピーの取り方もわからないのか」
「すみません」
「私の話を聞いていなかったのか」
「いえ、そうじゃ」
「じゃあ、なんで私の言った通りにできていない。50足す50は幾つだ。言ってみろ」
「100です」
「ここにある資料は何部ある」
「・・・50部です」
「会議は何時からだ」
「1時からです」
「1時と言うのは午前の1時のことか?午後の1時のことか?どっちだ」
「午後の」
「だったら13時と言え。言わなくても分かるだろうと思っていても情報は正確に伝える癖をつけろ」
「はい」
「君が苦手な算数の問題を出すが、いいか」
「はい」
「あと何分で会議が始まる」
「あ・・・あと」
綾部美香はちらりと壁の時計をみた。

「あ、あの……ええと」
「君は」
瀬島部長は芝居じみた嘲笑を漏らす。
「君は、時計も読めないのか」

仕方がない、助けるか。ここで彼女に恩を売っておけば、後々何かに使えるかもしれない。そう、思って私は瀬島部長と綾部さんの間に割って入った。

「あと、49時間29分です」
「ん」
「あと、49時間28分になりました。瀬島部長」
「49時間……」
「はい。会議は今日じゃなくて明後日です。私の記憶だと。それと綾部さんがコピーしてくれた資料は50部ではなくて、正確には25部の二束です。資料の前半部分だと思います。後半は研究結果がまだ出ていないので、そのデータが揃ってから刷ろうと思ったんじゃないでしょうか?そうだよね、綾部さん」
「はい」
「そのことをちゃんと言わなきゃ駄目だよ、綾部さん。この人は頭が悪いんだから。深夜の午前1時に会議があるかもしれないなんて考えるくらい頭が悪いんだから。明後日の会議を今日だと思うくらい頭が悪いんだから。スケジュールの管理もろくに出来ないんですか?」


子供の時から自分の事を『私』と言って、大人になっても私を貫く『私使い』の私はついつい言葉が辛辣になってしまう。

と、私、小手川裕一こてがわゆういちは思ってしまうのだ。


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