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猪木が亡くなった、でプロレスについて思うところを。

日本プロレスから猪木が飛び出して新日本プロレスを作った。その後、すぐに馬場さんが作った団体の名前を「全日本プロレスだって」と父親に教わった。そのあたりの話は、あちらこちらでおなか一杯になるくらい読んだ。どれがほんとかは、わからないけど。

日本プロレスの分裂前、ぼくたち、子どもたちの多くは猪木派だった。スピードあふれる猪木。コブラツイスト、卍固め(これは「開発途中」のビデオが中継の時に放映されたことを覚えてる)、そして観客へのアピールが多くのファンに支持された猪木。馬場さんは猪木に比べると動きは鈍いように見えたし、猪木のような、どうしたの?と見るものが驚くような、突然の怒りからの形勢逆転といったドラマを生み出すこともなかった。
でも、そこは判官びいきの私、小学生の頃から、なんとなく馬場派でありました。
 
猪木の仕掛け方がめんどくさいというか、好きになれないというか、そして馬場さんを「お前がインチキ」的な追い込み方をする猪木がどうも好きになれなかったのだろう。
 
その頃は、相当多くの純粋なプロレスファンが、BI砲の対決を夢見てた頃でした。
 
社会人になってすぐ、仲の良かった編集の同期が猪木と、当時、大ブームだったタイガーマスクの取材にいって、彼は佐山の中学か高校の同級生で、「おお、佐山」とマスクを付けた佐山に声をかけたら、猪木さんに「困るよ~」と苦笑いされたって言ってたという話を聞いた。その時は、新聞記者っていいなぁ、と珍しく思ったのだった。
 
村松友視の、「私、プロレスの味方です」がベストセラーになり、古舘伊知郎が出てきてプロレス中継に革命を起こし、ともかく新日本は圧倒的に大きくなり、全日は風前の灯に。週刊ファイトを読んでいたので、その紙面はともかく猪木、猪木。全日を救ってくれたのは認めたくはないけど、長州だったね。鶴田が覚醒して、天龍が一皮むけた。
 
引き抜き合戦もあった。ハンセン、ブロディ、ブッチャー、シーク・・・。懐かしい!
 
馬場さんが一線を退き、楽しいプロレスを始めたころ、後楽園ホールにも行ったなぁ。UWFブームの中、レガシー2団体は押されまくり、全日が呼んだマレンコ兄弟の試合を見ていたファンが「馬場さ~ん、どこが効いているのか教えてください」と掛け声をかけて、乾いた笑い声が起こったことも覚えている。
 
その頃、知人の披露宴に呼ばれて、私はその披露宴には新郎以外には知り合いはいなくて、ただ同じテーブルに前田日明さんと長井選手が。新郎が前田さんにさまざま仕掛けられてべろんべろんになったという思い出もあり。
 
馬場さんが亡くなって、全日が分裂して、三沢がノアを立ち上げて、鶴田が壮絶な最期を迎え、小橋がたいへんなことになって、まぁ、そんな頃にプロレスから離れていったのである。
 
でもプロレスは楽しいと思うよ。村松友視さんが虚実皮膜の世界だと言ったプロレス。猪木の死を伝える特集で、猪木―アリ戦を肯定的に伝える各テレビ局に驚いた。それも含めて捉えどころがないんだよ。プロレスは。


(注)馬場さん以外のレスラーはすべて敬称略。馬場さんはなぜか、呼び捨てにできない。
 


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