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街中の木は窮屈でないのか

道路沿いのコンクリートの合間に、直径1mほど土の部分が残され、木が植えられている。このような光景はどこにでもあるが、私には気になることがある。

木は、窮屈ではないのだろうか?

鉢ものだと、大きくなるごとに、植木鉢のサイズも大きいものに入れ替えていくものだが、道路沿いの限られたスペースの木たちは、大きくなったからと言って、より広い場所に移動されているようには見えない。

品種やその後の成長も熟考された上で、適したものが植えられているのかもしれない。

中でも特に窮屈そうに見えるものがある。

それは、わざわざ木に合わせて幹の太さ分だけ地面が見えるようにして、そこ以外はコンクリートという状態のものだ。
木が大きくて立派であればあるほど、「大丈夫かなあ」と勝手に心配する。
いつも行く素敵な病院の中庭にガラス張りの中庭があり、青々と茂った立派な木が1本ある。とても美しいし、青い空に緑の葉がよく映える。

でも、「木の虐待」と思ってしまうことがある。。。

囚われの木・・・なんだか本が書けそう・・・。私の妄想?

心配しなくても、土の中では広さ無限大で、根っこは伸ばし放題、ならいいけれど。
本来、人に癒しを与えたり景観をよくするために植えられていることが多いが、見ている方が「かわいそう」と不安に思えば意味が変ってくる。
とは言っても、私のような意見は少数派のようだ(「そこまで考えたことがない」といわれる)。

私の部屋には観葉植物が1つある。それがあるのとないのでは、部屋の雰囲気が全然違う。空気まできれいにしてくれる、ありがたい存在である。

私の住むマンションの入り口には様々な木や花が見事なバランスで植えられており、窮屈そうには見えず、きちんと手入れされ、どれも美しい。

以前、何かで「木や花には妖精がいる場合がある。彼らはネットワークで海外ともつながっている」と聞いた。残念ながら、私にはキャッチするセンサーはない。だが、あまりにきれいなので、本当にいるのではないかと思い、何度が心の中でご挨拶をしている。「今日もきれいですね。いつもありがとうございます。」と。

探し物があるときに、一度「●●を探しているので、もし見つけたら教えてください」とお願いしたこともある。毎日無償で空気をきれいにしていただいているだけも有難いのに、図々しくて申し訳ない。
その探し物は、まだ見つかっていない。

部屋の観葉植物にも気を使うことがある。部屋が散らかっていたり、部屋で口論などをしたときは「変な環境に置いて、すみません。喚起しますね。」と気遣う。

実家にいたときは、猫(メス)に気を使っていたが、彼女の気難かしさと比べると、植物には感謝ばかりである。(猫のかわいさには強烈なものがある。)

自称「植物や動物と会話ができる」知人に、街頭とか道路沿いの木が窮屈そうに見えるんだけど、どう思う?と聞いたところ、「窮屈だと思うよ」と回答があった。植物がそう言っているとは言ってなかったので、その人の感覚だろうが、同じようなことを思う人もいるようだ。

ちょっと怪しい感じに聞こえたかもしれないが、植物、というか森、木のネットワークというのは存在するといわれており、昆虫好きの作家、養老毅先生も著書で仰っている。土の中にある菌のネットワークのことである。私の頼りない記憶はここまでにして、興味のある方は、先生の著書を読んでみてほしい。実に興味深い。

街中の木はコンクリートが窮屈でないのか

会う人すべてに聞いているわけでないので、もし同じことを思っている人がいたなら感想が聞きたい。



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