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生欲、朝井リョウ原作の映画。

おはようございます、昨日22時過ぎに眠りについたエンドウコウイチです
最近1人でNetflixでこの映画を観た、タイトルはこんな感じだが、性的な映画じゃない気がしてこの映画を観た、新垣結衣と磯村勇斗と稲垣吾郎が出演している、新垣結衣は暗い役が本当に上手い前から思ってた、映画の内容は、生きづらい人生の磯村と新垣が再開する、2人は学生時代に少しだけ交流をしている、この磯村と新垣の2人のシーンがとにかくいい、会話もいい、いい意味で深刻で噛み締めるように言葉を話す
多数派の考え方から比べると少数派は生きにくい、まぁ映画なのでリアルに感じたとしても映画は映画でしかない、個人的な感覚だが、洋画はこんな世界あったらワクワクするなと思えたりするけど、邦画の暗い映画は薄ら(うっすら)とした不幸を断片的に描く気がする、不幸をおかずに時間という大切なご飯を食べる感覚に感じる、邦画の暗さは昔は好きだった今はどうだろう?同じ施設に通う人が最近は人が話してるYouTubeは見てない、人の声を聞きたくないと冷静に言っていた、私は逆に家で人の声ばかり聞いてる、私はその言葉が印象に残り、自分は寂しがりなんだと思う、それと同じく私は映画とか物語を観るなら、知らない顔の人を見たいとも思うようになった、この話こそ、終わらない、感覚の話になりそうだからやめよう。

今、生きづらいと私は感じているだろうか?
毎日ほとんど美味しい物を食べれて、私の斜めの下ら辺の角度のギャグを妻は笑っている、私は昔暗い男だった今は明るいフリがそんなに無理しなくても出来るようになった、私は過去どこか遠くに行きたいとばかり思っていたが、昨日妻と住んでいる街を2人で歩いて、この飲食店行きたいねぇみたいな店が5〜6件ほどあった、もうどこにも行かなくていいとそう思った、双極性障害で鬱みたいな時があっても、ダルくても死にたいとは思わない、もう誰とも深く繋がらなくていいと思った、その代わりにもう誰も遮断しなくていいとも思った、どんな時に私は楽しかっただろうか?
私の面白いは話すことの外側、申し訳ないもっとわかりやすくいうと、書くことが作る事が楽しいのだろうと思う、振り返るとそうだなぁと思うエピソードがチラホラある

まず、過去付き合っていた人とLINEで活字プレイをしていた、妻に簡潔に話した事があった気がする、そう私は凄い想像力と妄想力だ、今は出来ない、その時は狂っていたのだろう、コレを書いちゃうのは自己顕示欲なのだろうか?noteはこそ、ブログこそ、このサムネイルの水のように自由を感じる、私とか僕とか俺とか書いても違和感ないし、コメントもらえても嬉しいだけで終わるし、私は以前健康の為にプールに行っていた、前向きで好感を持てる人がよくプールに行っていて、プールに憧れがある、そろそろプールに行かないとな、プールに行くシーンを書くためにプールに行こうかな笑

文字を書くと自分の考えに潜れる、自分を知った気持ちになれる、私は普段人と話していて自分が話した事に違和感を感じる、罪悪感までいかないけど、そこにあまり楽しさは少ないけど、話さないと知れない事の方が多いから、大袈裟に言えば勇気と感性を絞り出して質問するようにしている、あとは私は口頭で話す際は大概ふざけてる、真面目な話をしても良いのだが、同級生でずぅーと真面目な話をする事が好きなヤツがいて、彼とは今連絡を取り合えば会えると思うが最近はあっていない、なので真面目な話は彼としつくしてしまったのかもしれない、書いていて自由を感じた、まだ書きたいことは山ほどある、私は家以外では話を聞く事が多い、妻は本当に話を聞いてくれる、休みの日なんかは特に妻は賢い思慮深い、思った事はそんなに言わない、私が神経質で過去その事で何度か喧嘩した事から、そう行動してくれてるのかもしれない、何しろ、生欲は観て良かった映画だ、妻に感謝、私の生欲は書くことにある。

ネットから拝借、【生欲】観てくれ



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