短編小説「ある珈琲店の一杯」
私が初めてこの小さなコーヒー屋に足を踏み入れたのは、秋も終盤に差し掛かり、寒さが厳しくなる時だった。
店外まで漂う深いコーヒーの香りに誘われ、気づけば毎日通うようになっていた。
マスターが淹れるコーヒーは、どこか懐かしさを感じさせた。
でも、飲んだことのない新たな風味。
一口ごとに、その不思議な感覚を味わっていた。
ある日、他の客がいないのを見計らって、カップを拭くマスターに声をかけた。
「いつもありがとうございます」
『いえ、こちらこそ。いつも私の自慢のコーヒーを楽しんでくれているようで』
マスターは優しく落ち着いた声で返してくれた。
「このコーヒー、本当に素晴らしいです。今までに飲んだことのない逸品ですよ」
『それは、それは。ありがとうございます』
「こだわりとかって、あるんですか?」
『ええ、それはもう、面倒くさいぐらいにねぇ…』
マスターはカップを拭く手を一瞬止め、今もゆっくりと抽出されているコーヒーを見つめていた。
「ところで、この店はいつから?」
『もう30年ほど前になりますかねぇ、妻と一緒に始めたんですよ』
「へぇ、奥様がいらっしゃるんですね。一度もお見かけしたことがなかったもので」
マスターは再びカップを拭く手を止めた。
『妻は…5年前に旅立ってしまってね』
マスターの声はいつにも増して優しく、そして薄れていた。
「申し訳ありません。そんなことも知らずに…」
『いや、気にしないでくれ。むしろ、彼女の話ができて嬉しいよ』
マスターは優しく微笑んだ。
でも、その笑顔は多くの寂しさが混ざっている。
『彼女はね、豆の選び方、挽き方、お湯の温度、注ぎ方…すべてにこだわりがあってね。正直私なんかよりずっと、彼女の方がコーヒーに詳しかったよ』
「そうだったんですか…」
『君が今飲んでいるコーヒーは彼女のお気に入りだよ。私も何とか覚えたその味を、香りを、なくさないように、こうして今もここに立っているんだ』
この一杯のコーヒーにこんな物語が溶け込んでいるなんて…。
「素人の僕が言ってもとは思いますが、なぜかここのコーヒーは全く新しいのに、懐かしいような感覚があるんです」
『そうだね。彼女はよく言っていたよ。゛コーヒーは記憶の味がするのよ”ってね』
私は手元の、まだ湯気の立つカップを見つめた。
そこには、マスターの想い、亡き妻への愛、そして二人の歩んできた30年の歴史が浮きあがって見えた。
俺は残りのコーヒーを一気に飲み干した。
「マスター、ごちそうさま」
『ありがとう』
マスターは静かに頷いた。
変わらずカップを拭きながら。
店を出る時、俺は振り返った。
「明日から、毎日来ます。もっとマスターの話、聞きたくって」
『ありがとう、待っているよ』
マスターは穏やかな笑顔で手を振っていた。
店を出た。
冷たい風が頬を撫でる中、俺は温かさに満ちていた。
明日も、明後日も、ずっと先まで、この店に足を運ぶだろう。
マスターの淹れた一杯を、味わい続けるために。
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