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短編小説「最後の希望」

街は既に絶望に包まれていた。

道にはゾンビと化した人々がよろめきながら彷徨い、目に入る光景はすべて、酷いありさまだった。
かつての日常の痕跡は、街ごと瓦礫の山に埋もれていた。

私は仕事場から一旦帰宅し、自宅周辺の危険を確認した。
そしてすぐに、仕事場である実験室に戻ってきた。

私は科学者だ。
人々のために日々研究に勤しみ、この世界のために努力し続けてきた。
こんなウイルスひとつに人類が負けるなど、認めたくなかった。

実験室に戻ると、静寂が私を包み込む。
他の作業員は皆、避難してしまった。

その時、ガラスケースの中でゾンビが起き上がり、恐ろしく唸った。
先ほど家に戻った際に、運よく被検体を得ることができた。

それが人類にとっても、私にとっても最後の希望だ。

私は椅子に跨り、実験を始めた。
ありとあらゆる資料と睨み合いながら、試薬を複数完成させた。
しかし、急ぎで作ったものであるがゆえに、安全性が期待できない。

私はガラスケースに近づき、それに向かって薬を投与した。


時間を置きながら、一つ目、二つ目と試していくのだが、どれも有益な効果は表れない。
むしろ、彼女がもがき苦しむ姿に心が痛くて仕方がなかった。

「すまない…僕にはもう無理だ…」

実験を始めて、50時間ほど経っただろうか。
科学者として冷静で少しの残酷性をも含む自分が、人間であるときの感情あふれた自分に負けた。

あれから幾度も薬を試したが、彼女の悶絶は激しさを増すばかりで、効果は見られなかった。

「本当に…申し訳ない…」

ガラスケースに中にいるのは、僕の妻だ。

3日前、妻が突然倒れたときは気を失っただけだと思った。
だが、実験室に運ぶ途中で妻の体が変化し始めた。
今はもう妻の意識はないのだろう…。

僕はいざという大事な時に、一番の大切を救えないような科学者だ。
もう科学者なんて名乗れない。失格だ。

僕はガラスの扉を開けた。
妻が唸りを挙げて、近寄ってくる。

これまでの幸せな日々が走馬灯のように頭を駆け巡る。
僕らはもうすぐ親になれるはずだった。

「でも、おかげで幸せだったよ…」

僕は強く強く、彼女を抱きしめた。

「そんなに強く嚙まないでくれよ、痛いんだから…」

その後のことを僕は知らない。

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