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2024/07/14 ここ、一番大事なのでもう一回言いますね

IMPORTANCE, or an interview with a schizophreniac man by means of artificial intelligence.

前書き或いは一編の詩

人工知能(AI, artificial intelligence)に次の詩をまとめてもらい、それにインタビューしてもらった私(とある統合失調症者の男性)が答えるという形式をとってみました。

時が流れる
時を得て子供は産み月を待つ
子供は大きくなる
青年は壮年になる
壮年は老人になる
老人は老いさらばえ消えていく
その中でいつまでも芽が出ないもの
水をやっても陽に当てても
必ずしも芽が出ない
それは人の愛
種に良不良があるように
時は残酷だ
#統合失調症

午後2:44 · 2023年12月10日 12件の表示
(自Xより)

特に強調したいところがあるとすれば、それは「芽を出さない、出せない種の存在についての意味論(semantics)的あるいは語用論(pragmatics)的解釈」です。平たく言えばその産まれて生きている意味とその周辺をめぐってということです。ここでいう種とは生物学的なアナロジーを用いるときもありますがじつは、生物としての直截的な種ではなくメタファーとしての種です。

「青年から老人まで、時が流れる中で芽が出ないもの」

 卑近な話ですが私は多分、これが生涯最後で生涯独身を決定づける失恋だった出来事といえる決定打があったためです。旧姓Sさんから返事があり、15歳の子がいると。芥川の作品(『羅生門』)から表現を拾うと、黒洞々たる闇が行く先を照らし出したという訳です。
 たぶん、これは失恋そのものと言うより、同級生である私と旧姓Sさんとの生い立ちと接点の無さを描くことになると思います。

「愛と時の残酷さ。どのような愛の種が芽を出すのか」

人間は社会的な生き物であるということ。
生まれるときも一人死ぬときも一人だが、
誰も道連れにすることは許されていない。
ペットを放置して殺すと動物愛護法違反で実刑、
子どもを放置して殺すと保護責任者遺棄致死で実刑。
世話をするという立場は終生責任を負うということ。
ただ二人でいたいからとか愛の印がほしいからと
パートナーを求め結ばれていてもいつかは解けることだし、
愛の印である子がいれば自慢ばかりしないで
きちんと育て上げる責任もある。
単にできてしまったからというのであれば、
犬猫に申し訳ないないことではないのか?
その犬猫だって本能的に養育放棄はほとんどしない。
見せつけるために愛情を本能にすり替えたのは、
造物主の悪戯か悪魔の囁きか大脳の退化か?
人間はヒトに進化するためにあらゆる者を得て
あらゆる者を捨ててきた。戦争で愛憎を捨てきれず
絶えず殺し合う。これは大脳の進化なのだろうか?
何かをうらやむとき、何かを殺したいとき、
そこには大脳の進化が置き土産にしていった
人類の長い時間の流れを見つめるよすがにならないか。

「水も陽光も、必ずしも芽を出さない理由とは?」

 犬猫がほとんど養育放棄しないとは書いた。
 しかしながら、多胎で生まれてくると一定の割合でそうする個体が発生する。飼い主がいれば養育放棄された個体に介入することもできる。
 残念ながら世の悲惨な事情を見れば明らかである。介入者がいない、あるいは許されていない制度がどれだけ悲惨な結末をもたらすか。
 どこでどうクロスするか今の私にはわからないが、遺伝子というものが大脳の機能にどう影響するのか。微細な意味でである。
 原因のないところに結果はあり得ない。養育放棄であれ(敢えて今ここに焦点を据えているが惚気や痴情というものも結果において同根とここでは見る)、精神疾患であれ(狭義で統合失調症とする。100人に1人を多いとみるか少ないとみるか?)、定型の展開ではあり得ないものには、何らかの共通の原因が無視できないと私は思う。

「人生の中で芽が出ないものに秘められた意味とは?」

 芽が出ないということは、結果として遺伝形式が発現しなかったということになる。それは、ある意味で幸いなことかもしれない。精神疾患ゆえに養育放棄が致死的であるならそれは周囲の助けが必要だったということになる。犬猫も同じ生物であるから優劣を持ち出すのではなく、飼い主であるヒトの介入同様に、介入してくれた方に感謝すべきであり、ましてや原因を惚気るなど論外なのである。それは表現のプロセスにおいて、パートナーが欲しくても実らない未婚の個体を傷つけていることに気づくべきなのである。気づかないということ自体が既に病的なのかも知れないし、専門的なケアを要していると思わざるを得ない。
 結果においてすべてよしではなく、そのプロセスをフィードバック、その都度振り返りをして反映するという営為も必要ではないのか。

「愛と時の流れ。時を超えて芽を出すものはあるのか?」

 愛といえばとかくロマンチックな文脈にならざるを得ない。そうではなく、生物学的な個体として、進化の過程として、我々は健康的に或いは病理的に、生殖や愛情において如何なる存在なのか。それに想いを致すときに、残酷な事実として歳をとりすぎて芽を出さないまま終わる個体もあるということを記憶に留める必要もあるだろう。愛し合えば良いのかといえば進化上そうとばかりいっていられないところもあると私は思います。
 芽を出せないことが幸か不幸かというのは、人智を超えたところにあるのではないだろうか。人間様が今いまに判断を下せるようなものではないのでは(私も含めて)。
 偶さか、進化の過程で捨てたもの、得たもの、或いは得る代償に失った本能もあるに過ぎない。動物的な意味ではなく見せつける意味では動物よりも性悪であり、ただ単に愛し合えば良いのではなく、どうして助け合うと謂うことができないのだろうか。現代の不毛なSNS愛憎界隈を見る度にそれを思わずにはいられない。

2024/07/14 ここまで

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