許し
白だ。ただひたすらに無限に広がる白い世界。他の色は何もない。完全なるホワイトアウト。雪山を知る人間が最も恐れる自然現象が、目の前に広がっていた。
視界は一メートルもない。吹き付ける暴風が雪をあらゆる方向から叩きつける。下から巻き上げられ、横から吹き付けてくる。
山の女神が笑う。無力な人間が、冬の雪山に入り込む愚かさを。
雪の女王が責める。領域を犯す人間よ、身を以て凍てつく世界を知るがいいと。
ピッケルを突き立てるが、まるで岩のように固くなった雪肌には一度では突き刺さらない。二度、三度、四度。力こめてピッケルを突き刺す。
地を這う虫のように山肌を這いずりながら、一歩、また一歩と進むことしか許されない状況だった。
体を起こせば暴風がなぎ倒し吹き飛ばす。
そうこれはあの日のような気象条件だった。
一人の人間を見殺しにし、白い雪の女王へ捧げる供物とした日。
ゴーグルに張り付いた雪が解け、その次の瞬間には凍り付く。肌を少しでも露出させれば、物の五分で凍傷を起こすことになるだろう。凍てつく世界は生者に厳しい洗礼を浴びせる。
あの日もそうだった。
事前に設定した登山ルートを二人は外れた。
自分が滑落したために。それを救おうとし、手を伸ばした藤沢先輩もろともそのまま斜面を滑り落ちた。
こうなってしまっては、もうなす術もない。まるで投げ捨てられた人形のように、硬くなった雪肌を滑り落ちていったのだ。
ふと気が付くと、自分たちは雪に埋め尽くされる直前だった。藤沢先輩が自分の上に覆いかぶさるようになったのは、藤沢先輩の意思によるものなのか、それとも偶然か?
だが結果的にそれが凍死する直前だった自分を救った。
自分は藤沢先輩の名を呼んだ。しっかりしてくれと、目を覚ましてくれと。
吹き付ける風は更に強まり、雪は益々深まった。山で降る雪は粒子が細かく、湿り気が少ない。その分、砂のように重く、風によって固められる。
周囲にはビバークできるような地形が見当たらない。岩陰になる場所もなければ、樹氷すら見当たらない。風を避けることも、雪から逃れる場所もなく、ましてやこの暴風の中、一人で雪洞を掘ることもテントを張ることも困難だった。
山は無力な人間を愚かだとあざ笑い、轟々とうねる風が責め立てた。そして冷気がそっと囁く。
生きることを諦めてしまえと。
この白い世界に埋もれてしまえと。
天も地も白一色に覆われた世界の一部となってしまえとばかりに、風は吹き付け、無力と絶望に苛まれた自分たちを嘲笑った。
救いを求めるかのように取り出したGPSは、滑落のショックで壊れてしまい、救助を求めることはできなかった。
ザックに入ったシェラフカバーの存在を思い出し、体に巻きつけてせめて体温の低下だけでも防がねばと焦った。動けない藤沢先輩に巻きつけようとした時、すでに彼の肉体は冷たく固いものと成り果てていたことに気付いた。
景色ばかりではなく、頭の中も真っ白になった。
自分が滑落することがなければ。
自分を助けようとしなければ。
そうすれば藤沢先輩は生きていたのかもしれない。二人揃って滑落しなければ、GPSの一つは無事であり、藤沢先輩は救助を求められたかもしれない。
だがその場合、自分が死んでいた可能性もあった。
藤沢先輩のように、冷たく凍り付いて、そうして死の女王の腕に抱かれて……
我に返った俺はピッケルを突き刺した。アイゼンで雪の大地を踏みしめ、また一歩這う。
あの日と同じ気象条件、そして同じ日付。
藤沢先輩が身代わりに死んだ日が一年前の今日だった。
定時連絡が来ないため、登山小屋から救難信号が発せられたのは同日の午後十四時。冬山の探索は危険と困難が伴う。強風ではヘリは飛ばない。また二次被害を防ぐため捜索隊も迂闊には手出しは出来ない状況だった。
冬山の危険性を熟知しているプロの登山家でも、二の足を踏むような絶望的な状況は、まるで嘘のように変わった。
山の天候は変わりやすい。それも劇的に変わることがある。
何もかもを白く染め上げるホワイトアウトは、まるで充電切れを起こしたかのようにぷっつりと途切れた。
今ならもしかしてと思ったのは自分だけではなかったようで、山岳救助隊のヘリは一縷の望みを掛けてヘリを飛ばしてくれた。
その音に気付いて、ひたすら発煙筒を振り続け救助を求めた。
奇跡的に生還することはできた。
そして藤沢先輩は命を落とし、その冷え切った体だけが地上へ返された。
藤沢先輩の葬儀は、自分が入院している間に行われたと、登山仲間から聞いた。
あの日と同じ白一色の病室は、おまえが殺したことを忘れるなと自分を責めているようで、毎日うなされては悲鳴を上げ、鎮静剤を打たれては朦朧とする意識の中で、藤沢先輩に謝り続けた。
退院し、真っ先に向かったのは藤沢先輩の実家だった。玄関先で土下座をして謝罪を続けた。藤沢先輩の母親は帰ってくれと言い、藤沢先輩の父親は仕事で不在だった。
謝ったところで藤沢先輩は帰らない。生き返ることはない。
それを誰もがわかっていた。所詮土下座をするのは「許されたい」自分の甘えだ。人殺しと罵って欲しかった。刑務所へ入れられてもよかった。不慮の事故であれ、自分のせいで藤沢先輩は死んだのだ。その事実は変わらない。
それなのに誰も責めてくれなかった。あれは事故だったと、不運が重なったことなのだと。慰められれば慰められるほどに、自分を許せなくなる。
それなのに誰かに許されたい。
そんな矛盾した感情が「一生許されるわけがない」のだと、自分が一番よく理解していた。
顔を上げた。あと少しで滑落した場所に到達するはずだ。
白いガスを含んだ雪が吹き付けて何も見えない。ゴーグルに張り付く氷を払おうとするが、それは結局無駄な仕種に終わった。
ピッケルを突き立て、アイゼンで岩盤のように冷たく硬くなった雪原を踏みしめ、少しずつ進む。
一人で雪山に入るのはそれだけで自殺行為だ。死を望んで入るために来たようなものだった。
だが自分にはここへ来る理由があった。
藤沢先輩に許しを請うために、ここへ戻ってきたのだ。白一色に塗りかえられた世界で、痛みをもたらす低温の中で、死を覚悟するその場所に、きっと藤沢先輩の魂があると信じているから。
毎日顔を出しては土下座した。許されるわけがないと知りながら、許しが欲しかった。そして例え許しを与えられても、決して本当の許しが来る日はないのだと知っていた。
藤沢先輩の死から四十九日。
その日ようやく自分は仏壇の前に通された。
遺影には笑顔を見せる藤沢先輩の写真が飾られていた。
夏山に登った時に写されたその一枚は、心から登山を、山と空を愛する男の姿があった。
『山で命を失ったのに、山で撮った写真しかないの』
涙を見せながら藤沢先輩の母親は寂しそうに言った。
大学の山岳部からずっと藤沢先輩と山を登り続けた。大きな登山となると、声をかけてくれた。どの季節に登っても自然は美しい。新緑が芽吹く季節も、青葉が茂る季節も、鮮やかな紅葉に塗り替わる季節も。
そして真っ白なあの季節も。
しかし自然はただ美しくあるだけではない。人が踏み入ることが少ない場所程、自然は小さくか弱い存在を許しはしない。
おまえはここまで何をしにきた?
おまえはこの先の何を見たいのか?
自然は絶えず人間に声なき声で問いかける。時には雨となり雷鳴を轟かせ、時には風となり容赦なく吹き付けて。そして雪となりすべてを凍てつかせながら。
常にその存在価値を問いかけるのが山だった。
防寒対策はしている。それでも爪先が氷のように冷たくなっていることは、容易に想像できた。体は暖かくても、他の部位より防寒できない顔は、寒さを痛みとして捉えていた。
あの日滑落した原因は自分にあった。
ビバークしようと提案したのは藤沢先輩だった。時刻は正午、滑落の一時間前。雪山を歩ける時間は短い。日の出前に歩き出し、午後をわずかに過ぎたらテントを張る。日が暮れたら動けないし、テントを張るにも時間がかかる。雪洞を掘るにしろ、このコンクリートのように固い雪は、簡単に掘れるものではなかったし、湯を沸かしたところで標高が高い場所では、気圧の影響で沸点が変わり満足な温度には達しない。
それらを踏まえると、雪山を進む時間は一日のうちでわずかしかない。また体力の激しい消耗は、遭難を生む原因ともなる。
わかっていた。
それでももう少し先へ進んでからにしようと言ったのは自分だった。自分たちなら大丈夫だという過信があった。素人のようにもたつくこともない。準備にはそう多くの時間はかからないとたかをくくった。
事前に登山ルートとして設定した場所は、その場所よりなだらかな場所となっている。そこの方がテントを張りやすいし、そこまでは一時間とかからない。
それが運命の分かれ目だった。
だからすべての責任は自分にある。自分を助けようとしなければ、藤沢先輩は死なずに済んだ。なによりも最初の提案に従っていれば、二人が滑落することもなかった。
事故を生み出したのは、まぎれもなく自分の愚かさだった。
墓前に案内され、手を合わせた。水を汲んでくると姿を消した藤沢先輩の母親がいなくなった隙に、墓前の前で土下座をした。
真っ白な世界で命を奪われ、真っ白なちっぽけな骨となった藤沢先輩に謝りたかった。
一生許されないと知っていながら、それでもいつか許されたいと渇望しながら。
ばさりと何かが落ちる音がして、その方向へ視線を向けた。
白を中心とした花束が落ちていた。その向こう側に立つ女性の姿に見覚えがあった。
藤沢先輩の彼女だった。
彼女は知っていたのだろうか?
いつか藤沢先輩が結婚を申し込もうとしていたことを。
『まだ一人前とは言えないからな。もう少ししたら、言おうと思っている』
酒の席で「いつ結婚するんだ?」という冷やかしを受けた藤沢先輩は、すこし照れくさそうに周囲にそう漏らしていた。
プロポーズもできないまま、帰らぬ人となってしまった。
そうさせたのは紛れもなく自分だった。
足を進めた拍子に、アイゼンが硬い雪肌を捉えることができずに滑る。傾斜は比較的緩やかであったものの、吹き付ける容赦のない風が体をなぎ倒した。
「!」
グローブが滑りピッケルから手が離れた!
また滑落する!
「っ!」
ほんの僅かの刹那の時間によぎったのは、藤沢先輩のあの冷たくなった体だった。だがピッケルについたベルトを手首に通していたため、滑り落ちることはなかった。
この一瞬で冷や汗がどっと噴き出した。心臓が早鐘のように鳴る。あの日を思い出した体が、あの時の恐怖をも再現するかのように小刻みに震えだした。
ピッケル一つに助けられる形となりながら、空を見上げるが、そこに見えるのはただただひたすらに白。
何もわからない。前後左右どころか、天も地も白一色に塗り固められ、空間すら雪とガスに覆われて、何も見えなくなっていた。
このまま進むのは愚かだ。あまりにも愚かだ。
わかっている。それでも藤沢先輩の魂がそこにいるような気がしてならない。
だから進むのだ。藤沢先輩の魂を最も近くで感じられる場所で謝罪し、そして許しを請うのだ。
許されないと誰よりも知りながら、誰よりも許して欲しい人に向けて。
『いつかこんな日が来るような気がしていました』
そう告げたのは先輩の彼女、穂高真美だった。藤沢先輩が昔、山で滑落し、足を骨折して入院した時に出会った看護師の女性だった。
足の骨を折っても治れば山に入る。どんなに危険だからと言ったところで、藤沢先輩がそれを聞き入れる訳がなかった。
あの人は誰よりも山を愛している。穏やかな季節も厳しい季節も。
あの山の頂上で、どこよりも空を感じられる場所を、何よりも愛している。骨折くらいで山を嫌いになる山男はいない。山を登れば怪我は付き物。死ぬのなら山で死にたい、死んだなら山に骨を埋めたい、そう恋い焦がれる程に愛するのが登山家だ。
真美は藤沢先輩に山に入るなと言えないことを知っていた。だから不安なままでいつも待つことしかできないでいた。
どうか無事に帰ってきますようにと願いながら。
だがその祈りは山の女神には届かなかった。
墓前の前で土下座をする自分に、真美はそんなことをする必要はないと言った。
『私はあなたを責めるつもりはありません。でも山を憎みます。一番あの人に愛されていたのに、あの人の命を奪った山を憎みます』
真美は自分を責めてはくれなかった。そして憎んですらくれなかった。
山はただあるがままにあっただけであり、藤沢先輩の死の原因は自分なのに。
責めて欲しかった。憎んで欲しかった。罪はおまえにあると、人殺しと、そう罵って欲しかった。
体をうつぶせに戻し、アイゼンで慎重に足場を確認しながら、また登り始める。もうすぐだ。あと少しで、あの場所へ辿り着く。
藤沢先輩、あなたを殺した自分を許せないのなら、このままそっちへ引きずり倒して連れて行ってください。何時間でも何日でも、永遠におまえのせいだと責めて下さい。
何もかもが凍てつく世界で。
けれどもしも許してくれるのなら、どうか、どうか……
真美とは数回会って話した。会えば話題は藤沢先輩のことばかりだった。学生時代の思い出から、社会人となってから一緒に登った山の話。
山を憎むと言った真美にしてみれば、苦痛でもあっただろう。
だがそんな憎い山のことしか話せることがなかった。
藤沢先輩と自分を繋ぐのは山でしかない。お互いに山に魅せられているからこそ、出会い、そして意気投合し、山を登ることで信頼を深めた。
俺は藤沢先輩を尊敬していたし、登山家として信頼していた。兄のようであり時には友でもあった、俺にとっては掛け替えのない人だった。
いつからかその話題が変わってきた頃、自分は真美に惹かれていることを自覚した。
だがそれは最も許されないことだった。
風が勢いを弱めた。荒れ狂う音がしなくなったのだ。それに気づいてふと顔をあげた。
それは嘘のように劇的なことだった。それに合わせて雪が小降りになる。ガス靄が薄まったようで、視界一メートルもなかった世界が、静かに変わり始めていく。
「先輩……」
おまえ、本当に馬鹿だな。少しは懲りろよ? こんな時に来るなんて。
そんな声が聞こえた気がした。目を細めて白い歯を見せて、日に焼けた顔をくしゃくしゃにしたあの優しくて大らかな笑顔が脳裏に思い出された。
風が弱まったと言っても、無風ではない。わずかな風はガスや雪を払いのけ、山肌を見せていく。
白にしか見えなかった空が、鉛色を表し初めて白以外の色が加わった。それと同時に光が見えた。
鈍色の空から眩い光が現れる。雲の切れ間から天の梯子と呼ばれる光が、地上へと伸びていく。
「先輩、藤沢先輩!」
涙が滲んだ。そこに藤沢先輩が現れたような気がした。
わかっている。そんなのは俺の希望だ。いて欲しいと願う自分が、自分の中に作り出した幻だ。
それでも俺はそこにいると思いたい。誰よりも山を愛した先輩の魂が、この山に眠っているのだと信じていたいのだ。
「俺は生きてもいいですか? 真美が好きです! 愛している! 先輩の分も大切にします! 先輩の分も愛します! 俺たちは一生先輩を忘れません! 一生、先輩の思い出を忘れません! だから、だから」
涙が溢れて止まらなかった。藤沢先輩の魂に最も近い場所で、許しを請いたかった。
真美に惹かれていく自分と、自分に惹かれていく真美。互いに愛し合いながらも、口づけの一つもしなかった。
一年間は喪に服したいと真美が告げたからだ。
だから自分は先輩の命日にあたる今日、ここへきて許しを請いたかった。
「生きてもいいですか? 先輩、先輩……俺は……先輩……」
罪は消えない。一生背負うことになる。
あの日、この場所で藤沢先輩の命を奪った自分は、本当の意味では許されない。
何よりも誰よりも、自分がそれを許さないから。
それでも許されたいと願っていた。
「一緒に生きることを、許してください……」
項垂れると、ゴーグルに涙がぽつりと跳ねた。
許し―完―
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