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06 運命の女

 最初に気付いたのは匂いだ。
 知らない匂いがする。消毒液、軟膏? それに混じるのは食べ物の匂い。それからやはり嗅ぎ慣れない部屋の匂い。
 ロニーはそっと目を開けた。やはり知らない天井だ。淡い暖色系のライトが室内を照らしている。もう一度目を閉じて感覚を確かめる。手足は拘束されていない。自分はあおむけに寝転がっている状態だが、床に転がされているわけではなく、どうやらソファーか何かだ。更に毛布が掛けられている。これをした人間は敵対する者ではない。
 もう一度目を開ける。少し下を見れば、水色のふわふわの毛布が自分を包み込んでいた。
 横を見ればテーブルには救急箱。びっくりするくらいの殺風景さで、あとここから見えるのは一人掛けのソファーとカーテンが掛けられた窓だけだ。常夜の街のオレンジ色の人工照明が差し込んできている。室内に目立ったテーブルとソファー以外のインテリアの類いは一切なかった。
 腕も足も縛られていないのだから、起き上がってもいいだろう。
 そう思って起き上がろうとすると、脇腹と背中に激痛が走った。あまりの痛さに顔を歪める。悲鳴が喉の奥で詰まり吐き出せない。
「!」
 そこでようやく直前の記憶が蘇った。ヴィズルの連中に追い立てられ、逃げるようにして走っている途中、確か女にぶつかったのだ。
 ロニーは思わず自分の腕を確認してみた。特に蕁麻疹の類いはない。仮に出ていたところで、そこそこの時間が立っているので消えたのかもしれないが。
 ぶつかってきた女は、立ち上がったロニーを壁に叩きつけ、更には一発腹を蹴り上げてきた。綺麗にみぞおちに入ったせいで、意識が遠くなって、人生で初、女の胸に顔を埋めてしまったが感触はあまり記憶にない。
「……」
 ということは、あの女がここへ連れてきたのだろうか?
 毛布の中で手を動かし、脇腹に触れる。どうやら上に着ていた物はすべて脱がされたらしい。しかし柔らかいタオルの感触がするので、どうやらバスローブを着せられたようだ。
 撃たれた箇所は何かでおおわれている。感触からして密閉型の絆創膏だろう。ロニーもよく世話になる。多少の切り傷ならこれが一番楽に手当てができる。エイキンの潜りの病院は、それだけに違法と目を向く程診察料が高い。
「……」
 どうやら相手は手当してくれたらしい……いったい何が目的だ? と思いながら今度こそロニーは起き上がった。
「いぅっ……っ!」
 あまりの痛みに呻いた。切られた程度じゃなく撃たれているのだからしょうがない。どうやら鎮痛剤の類いは効いていないようだった。
 起き上がってみてみれば、素肌にバスローブ、下はそのままパンツスーツのままだ。着せる物がなかったので、これにしたらしい。妙な格好だなと思いつつ立ち上がる。
「っ!」
 肩よりも脇腹が痛い。ソファーの背もたれに思わず手をついた。
「あ」
「あ……」
 目の前にはあの女が立っていた。
 髪は金髪のショートボブ。目は灰色にも見える薄紫。意思が強そうな眼差しをしている。手足がむき出しなショートパンツにキャミソール。そこそこ運動を欠かさないのだろう、しなやかな筋肉におおわれている。
 目の下は絆創膏で覆われ、少し腫れているようだった。ぶつかった衝撃で切れて、挙句に腫れ上がってきたのだろう。膝や肘もガーゼが当てられていた。
 その両手には小さな鍋と鍋敷きがあった。
「起きたんだ。トイレ?」
「いや……そうじゃないけど」
「なら座って。食べられる?」
「……」
 まったくの初対面のはずだが、まるで知り合いのように警戒心のない態度で、女はロニーに近付き、隣を通り過ぎてテーブルの上に鍋式と鍋を置いた。
「レトルトのスープ温めただけだけど。今パンも持ってくるからそれも食べて、薬を飲んで頂戴」
「……おまえ誰だよ?」
「セシリア。だけど大抵セシルって呼ばれているわ。トラブルシューターのセシルよ。何でも屋だと思って頂戴。あんたがマフィアだってことは想像つくけど」
 セシリアと名乗った女は、そう言ってまた引き返した。ロニーをマフィアだと見抜いたうえで恐れるでもなく背を向ける。余程警戒心がないのか、それとも警戒心を見せないことに長けているのか。
 もしくは対処できるという自信の表れか。
 一筋縄でいくような相手ではない。そう判断して、ロニーは溜め息をついた。どのみち、手負いの状態で派手に動きたくない。痛みを無視することに慣れてはいるが、痛いものは痛い。
 改めて見回すが、この部屋は殺風景過ぎる。普段人が住んでいる気がしない。あるのはテーブルとソファーという家具と、救急箱とゴミ箱だけ。小物を置くのが嫌いでも、ここまで何もないのは異様な気がする。
「座ってなさいよ」
 ずけずけとそう言って、再び戻ってきたセシリアの手にはトレイがあって、その上にパンやビール、スナック菓子が乗せられていた。
「で、あんたの名前は?」
「……」
 図々しい女だと思った。それとも他人の精神的な間合いに飛び込むのがうまいのか。自分が警戒心を見せない、感じさせないことで、他人の警戒心も削いでしまう。簡単にできるようで、簡単なことではない。
 このエイキンは常に騙す人間が蠢いていて、誰もが警戒心を張り巡らせる。またそれができなければ早々に破滅して死んでいくだけだ。
 冗談ではなく、文字通りに死ぬ。殺されるか、行き詰って自殺するかのどちらかだ。
 警戒心を見せないというのは、簡単に出来る場所ではなく、ましてやマフィアを相手に出来るようなことではない。
 余程度胸が据わっているのか、それとも単なる馬鹿か……
「名乗りたくないなら勝手に付けるから。赤毛でピアスしているから……赤ピー?」
「よせ」
 唸るようにして言うと、セシリアはおかしそうに笑って、ビールの栓を外した。
「俺にもビールくれよ」
 直接ボトルから飲もうとしていたセシリアは、今まさに飲もうとした仕種のままで手を止めて溜め息をついた。
「馬鹿言ってんじゃないわ。撃たれたところ、痛くないの? 鎮痛剤飲む前に酒なんて飲んだら、気分悪くなるわよ。いいから座りなさいよ、赤ピー」
「ロニーだ! 気持ち悪い呼び名つけるな!」
 反射的に叫ぶと、セシリアは笑いながらビールを瓶のままで煽った。その豪快な飲み方は、まるで「これはあたしのものよ、文句ある?」と言いたげで、また瞳も楽しげに輝いていた。
「そうロニーね。座ってロニー。そして軽く食べたら、薬を飲んで」
「……おまえ、目的はなんだよ?」
 名前さえ知らなかった相手の手当てをして、更には食事や鎮痛剤の用意をする。このエイキンでは損でしかない行動だ。
 マフィアと見抜いているのなら、何かしらの利権の要求をしようとしているのだろうか?
 そうだとしたら馬鹿だろう。ガウトの人間は何者にも屈しない。
 睨みつけるようにして見下ろしていると、セシリアは肩をすくめて見せた。
「特にないわね? ただ気絶させちゃったから、お詫び? ごめんね、強く蹴ったつもりはなかったんだけど、綺麗に決まったみたいで。気絶したからびっくりしたわ。ここに連れてくるの大変だったんだから。通りにいた人に手伝ってもらったのよ?」
 そう言ってセシリアは快活に笑って再びビールを煽ると、スナック菓子に手を伸ばした。
 ロニーは脱力感を覚えて座ることにした。とりあえずこの女にどんな裏があるにせよ、こそこそ仕掛けず堂々と仕掛けてくるようなタイプだろう。
 しかし座ろうにも腹部に力がかかる。思わず痛みに息を止めて呻くと、ビールをテーブルの上において、セシリアは身を乗り出してきてロニーを支えた。
「大丈夫?」
「触るな!」
 手で払うとセシリアは一度身を引いたが、平手で頭を叩いてきた。
「偉そうに言うんじゃない!」
「おまえな!」
 反射的に睨み返すとセシリアも負けじと睨み返してきた。
「あたしの手当てなんて素人手当よ。脇腹の弾は貫通、左肩甲骨下はあまり深くないところに弾があったからピンセットで取ったけど、どちらも縫っているわけじゃないし、あたしは医者じゃないのよ。心配もするでしょ」
 そう言ってロニーの顔を両手で包み込んできたので、ロニーは必至で顔を逸らした。
「あんたね」
「女がダメなんだよ、俺は!」
「は?」
 いちいちそんなことを口にもしたくなかったが、言わなきゃこの女には通じないと思ったロニーは、根を上げるようにして叫んだ。
「だから、女が嫌いなんだ。触られると蕁麻疹が出る」
 そう言うと、セシリアはじっとロニーを見てきた。
「……でもあたしが手当てしたのよ? シャツを脱がすにしろ手当てするにしろ、今まで散々素手で触ったし、それにあれよ。あんたのそれは自家中毒じゃない」
「……自家中毒?」
 おうむ返しに聞き返すと、セシリアは頷いた。座りなおして、ロニーを見る。
「男と女の身体的な造りは確かに違うわね。けれど女の皮膚から毒物が分泌されているなんて話は聞いたことないわ。触れて蕁麻疹が出るというのは、ロニー、あんたが女に触るのを躊躇う、接触を極端に避けたいロニー自身の精神的な拒絶反応が、肉体的にも出ているだけよ。つまり『俺は女に触るだけでも蕁麻疹が出る』と自己暗示かけているのね」
「そんなわけねぇよ」
 否定するように言いながら、脳裏をかすめたのは七歳にして殺害した実母だった。もう顔さえ思い出せない。最初に殺した人だった。
 殺さなければ殺されると思う程の暴力を振ってきた女性だった。酒に溺れ、薬に溺れ、男に縋って生きるしかできない、典型的な娼婦だった人。
 あんたさえいなければとよく罵られた。勝手に生んだのはそっちだろうと、子供心に何度も思った。
 女性に対する精神的な拒絶反応という言葉は、あまりにも心当たりがありすぎる。恐らく母親が全ての元凶だろう。
 だから娼婦を見るとぞっとする。どれ程見た目が美しかろうと、その中身の醜悪さに反吐が出る。
 例え自分も種類の違う下種であろうとも。
「あんたの顔にあたしは今触れたわ。見た目に変化はない。それとも腕にでも出ている?」
「……」
 思わず手を見てしまうが、感覚的になんともないことはわかっていた。
「あんたが気絶している間に触ってなんともないのがいい証拠よ。まぁ、それだけ強烈な自我中毒が表面化するんだから、女にまつわることで最低な記憶があるんでしょうけど。人類の半分が女よ。あんたのトラウマになるだけの強烈な女だけがこの世の女じゃない。そうした見方を続けたら人生損をするわよ」
 そう言ってセシリアはスナック菓子を口に放り込んだ。サクサクと軽い音を立てながら、何度か咀嚼してビールで流し込む。
 確かに顔にも、そして先ほど支えられた時に触れた腕にも、蕁麻疹が出ている様子はない。
 ロニーはしばらくセシリアを観察して、ふと思ったことを口にしてみる。
「おまえあれか? 性転換手術とか」
 そういうとセシリアは無言で立ち上がってロニーに近づき、拳を固め勢いよく振り下ろしてきた。反射的にセシリアの拳を手のひらで受け止める。すると今度は反対の左の手でも殴りつけてきたので、それもロニーは受け止めた。この女、多少の手加減はしているようだが、ほぼ本気で殴りつけてきている。手のひらへの衝撃がすさまじい。そればかりか傷に負荷がかかっている。
「わ、悪かった」
 冷やかな真顔で見下ろし、ぎりぎりと拳を力押ししてくる。その薄紫色の瞳は怒りを湛えており、口元だけが引きつったように口角を上げている。
「あたしのどこがオカマに見えるのか、説明してもらおうかしら? 言っておくけど、天然物よ? シリコンじゃないんだけど?」
「蕁麻疹が出ないから、もしかしてって思ったんだよ! 悪かったって、脇腹も肩も痛ぇよ! おまえほぼ本気だろ!」
 拳を振り下ろしたまま、それでも殴りつけようとするセシリアの力は、相当なものだった。少なくとも撃たれた肩と脇腹に痛みが響く程度には力強い。
「一発くらい殴られなさいよ」
「おまえちょっと前まで怪我している俺を心配したんじゃねぇのかよ! 率先して怪我を増やすな!」
 痛みもあってヤケクソ気味に叫ぶと、セシリアはふっと表情を和らげて笑った。押し付けられていた力が、急に弱められた。
「ほら、蕁麻疹出ないでしょ?」
「あ……」
 両手でセシリアの拳を受け止めているのに、確かに蕁麻疹は出ないし出る予兆も感じない。セシリアはしてやったりというように楽しそうに笑いながら、先ほどまで座っていたソファーに座りなおした。
「だからあんたのそれは女性を目の前にした時に、女に触ったら蕁麻疹が出るって意識しちゃうからだめなのよ。身構えず、自然体で、まずは話すことからしてみるといいわ」
 しかしそうは言われてもと思う。別に女性と仲良くなりたいわけではないし、女性嫌いのために不都合があるわけでもない。女を抱いたら孕ませる危険性があるが、男を抱いても孕む危険性はない。むしろ特に困っているわけでも、改善したいと願っていることでもなかった。
 しかしながら触っても大丈夫な女というのが目の前にいる。それはロニーにとって純粋に驚きの対象だった。
 胸はそこそこ大きいし、手足もこれでもかと晒している。他の女と違うところがあるとすればなんだろう? そう思ってじっと見ていると、セシリアが怪訝そうな眼差しを向けてきた。
「何よ、じっとみて? まだ人をおかまにしたいわけ?」
「いや、そうじゃねぇけど……」
 間が持たなくなってきたので、目の前のスープに手を伸ばすことにした。
 鍋の蓋を開けると、暖かい湯気と香ばしい香りがする。ポタージュのようだった。
 鍋ごと掴んでスプーンで飲もうとしたのがばれたのか、セシリアはトレイに乗せて持ってきたスープ皿を指差した。
「そっち使って」
「……」
 逆らうと気力が削がれる羽目になると、短いながらも学習したロニーは、諦めて一度スープ皿にポタージュを移して、それから飲むことにした。
 味はよくある普通のポタージュ。レトルトを温めただけだろう。けれど暖かい飲み物が、じんわりと体にしみこむような気がする。
「あ、ねぇ。ところでさ。内情まで聞いたらこっちの身が持たないから聞かないけど。あんたたちのドンパチは当分続くの? 道を歩くたびに撃ち合いだとか切り合いに遭遇するんじゃ、こっちも商売もできないし、息抜きもできないわ。まだまだ荒れそうなら、あたし当分エイキンには潜らないことにしようと思うんだけど」
 トラブルシェーターと名乗ったが、要は揉め事の調停をしているのだろう。もっと平たく言うと何でも屋だ。個人で対応出来る範囲で問題を処理するのが仕事と思っていいだろう。この街は他人のトラブルですら仕事になる。そうした連中は案外あちこちにいる。
 確かにエイキンの街が荒れれば、他にもあおりを食らう連中がわんさかいる。商売に影響があるだけではなく、身の危険を伴うのがエイキンだ。
 自分もそのエイキンを牛耳るマフィア・ガウトのナンバーフォーという立場上、街の行く末をある程度予測しておかなければならない。
「荒れると思う。奴ら、今の勢いで調子付いてきている。たまたま一度成功しただけで、それがずっと続くものだと思い込んでいやがる。俺たちがそれを許すと思うか?」
 思わず本業の思考で言葉を漏らすと、セシリアはまったく興味がないというように気の抜けた口調で反論した。
「マフィア同士の言い分なんて、素人には理解できないわ。わかった、それで十分よ。当分エイキンには来ないことにする」
「他の区画でも活動しているのか?」
 地下都市は区画が違うだけで雰囲気が様変わりする。すべてがエイキン同様の雰囲気かと思えば大間違いだ。ちょっとしたリゾート地のような洗練された場所もあれば、やけに宗教めいた大人しい区画もある。どちらもあまりロニーには縁がない場所だ。地下都市のすべてが犯罪に直結しているわけではないのだ。
「してない。地下都市はエイキンだけ。だってこんな仕事になる揉め事が多い場所って、エイキンだけよ?」
 そう言ってセシリア悪戯めいた笑みを見せた。
 その笑顔を見てロニーは思わずどきりとする。何にそう感じたのかよくわからないけれど。
「……」
 自分が感じたものの正体がよくわからず、居心地が悪い。
 だからこそロニーは目の前のポタージュを、スプーンですくって飲むことに専念した。

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