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17 殺戮のBB

 酷く体が重いような気がする。心なしか、体中が痛くてビアンカは呻いた。筋肉痛になるほど体は鈍ってはいない。体力と運動神経がなければ、すぐに死に繋がる商売だ。体力の衰えを自覚したときには、死を自覚するときでもある。
 でもこの体の痛みはそんな筋肉痛とは違う。もっと表面的に鋭く痛い。
 そして呻いたあとに、息を吸おうにも、なぜか息が止まって吸えない。
「ぶはっ!?」
 目を覚ますと、昨夜とは違う白の開襟シャツにジーンズ、色の薄いサングラスを掛けた沢本要が、心底人を小馬鹿にしたような目で見下ろしていた。
 一瞬、なんで自分の部屋に……と思いかけたところで、自分の部屋はボマーのマヌケに吹き飛ばされ、ここは茜医院の一室だったということを思い出す。
「何度呼べばいいんだ? えぇ? それも勝手に居ついて泊まった分際で、いつまで寝てやがる」
 どうやらビアンカは沢本に鼻をつままれたらしい。記憶にはないが、沢本が言うことが本当ならば、何度か声もかけられていたようだ。
「あー、だりぃ……腹減った」
「言うにことかいて、それかよ。いいからとっとと起きろ。ニーナも来ている」
「ニーナ…ニーナ……って、睡蓮華の女主人か?」
「そうだ。ほら起きろ」
 そう言って沢本はビアンカの頭を拳で軽く小突いた。動作は大したことはないが、骨の硬い部分が当たって、がツンと衝撃を感じるくらいには痛い。
「いてぇな!」
 キッっと睨みあげてやるが効果はなく、沢本は冷ややかな視線を向けただけで、先に点滴室を出て行った。
 窓の外はカーテンに遮られていてわからない。だが差し込む光が淡く照らし出し、今日は快晴だと知る。最も快晴と言っても、どこか薄ぼんやりとしたブルーグレーの空。本当の青はもう失われて久しい。今は青い空を誰も知らない。
 昨夜はとにかく眠くて、このベッドに辿り着くなり直ぐに横になった。そしてまるで気絶するように眠り、今まで沢本が近くにいることすら気付かない程に熟睡していたのだ。
「うぅぅ……」
 ようやくベッドから身を起こして、両腕を伸ばして伸びをする。背筋がぎしぎしと音を立てそうな気がした。腕を下ろした時、鋭い痛みがして、怪我をしてガーゼをあてがったままの腕を見る。それから思い出したようにこめかみに触れると、包帯の感触がした。
 そしてあの飄々とした医者を思い出す。
 茜岳人と名乗った男は、デッドシティではお目にかかれないほどのお人よしだ。あのハウンドの沢本が面倒を見ずにはいられないほどの、危なっかしさを持ち合わせている。
 ビアンカにしたって、昨日初めて来たばかりの患者だというのに、行き場がないと行ってみたら、この場所に泊めてくれた。いいカモだと思うが、あまり調子に乗ってはあのハウンドが黙ってはいないだろう。
 ベッドの下に足を下ろし、ブーツに足を通す。服装は昨日から同じでうんざりするが、部屋が吹き飛ばされているので、着替えが無事かどうかもわからない。
「あぁ、朝から憂鬱だぜ」
 そう呟いて、ビアンカはベッドを出た。
 点滴室を出て廊下に出ると、昨夜の印象とはまた違って見えた。廊下にビアンカが歩く足音が響き渡る。
 診察室に来ると、昨夜茜が座っていた椅子に睡蓮華の女主人であるニーナがいた。黒のロングタイトスカートに白のブラウスと質素な格好だ。しかし左サイドが膝上までスリットが入っているため、組んだ脚が艶かしい。
 髪は下ろし、化粧は控えめにしてある。だが身についた円熟した色香は隠せない。むしろ質素な格好で控えめにした結果、退廃的な色気が醸し出されていた。
 そして沢本は入り口横の壁にもたれ、昨夜同様、勝手に珈琲を入れて飲んでいた。
「昨夜はそのまま泊まったと聞いたわ。怪我の調子はどう?」
 ニーナに見つめられたビアンカは診察台に腰掛け、額に軽く触れた。
「起きたとき、背中はちょっと痛かったな。でもまぁ、耐えられないほどじゃない。頭はどうなっているのか、自分じゃ見てないからわかんねぇ。贅沢を言えば、もう少し寝ていたかったところだ」
「一睡もしていない、あたしや要に言う台詞ではなくてよ?」
 すっと目を細めて、そして口元を吊り上げる。挑発的にも見えるし、嫌味のようにも見える。ビアンカは苦笑した。
「そりゃ悪かった、姐さん。ところで先生がまだなんじゃない?」
「あぁ、もうすぐ来る。おまえがさっさと寝た後も、茜は起きていて、結局運び込まれた睡蓮華の姉ちゃんたちの診察をしていたんだよ。おまえはアホ面さらして熟睡していて、起きる気配もねぇから、朝に出直すということになったのさ」
 皮肉っぽく口角を吊り上げて笑うと、沢本は珈琲を飲んで溜め息を漏らした。
 そこに新しい足音が聞こえて、この診察室の主が頼りない足取りで現れた。
 寝起きなのか欠伸をかみ殺し、口元を押さえてやってきた。
「あぁ、おはよう要さん。あ、ボネットさんも」
 黒のスラックスにワイシャツを羽織っただけでボタンを閉じながら中に入ると、自分が座ろうとしていた椅子に先客がいることにようやく気付いたらしい。
「あれ、ニーナさんまで。おはようございます」
 立ち止まりボタンを留めつつ笑顔でそう言うと、ニーナは組んでいた脚を下ろして立ち上がり、立ち止まっていた茜に近付いた。両手を伸ばして茜の頬を包み込むと、そのまま後頭部へと手を差し込み、強引に引き寄せ唇を重ねた。
 茜は一瞬困ったように目を見開き瞬きをしたが、ニーナの肩と腰を引き寄せてそのまま抱きしめた。
 ビアンカは自分でする分にはいいが、目の前でされるとなんだかなぁ? といった、微妙な気分で壁にもたれたままの沢本を見るが、他人のことなど興味がないのか、珈琲を飲みつつだるそうに窓の外の風景を見ていた。
 何度か角度を変えて、深く口付けていたようだが、さすがにそれ以上の行為に発展することはなかった。
「目が覚めたかしら、岳人先生?」
 ニーナのほっそりとした指が、茜の頬を滑り降りる。茜は応えるように微笑んだ。
「覚めました。ありがとう」
 そう言って茜は笑い、額に軽く唇を押し当てると、ニーナをそのまま普段自分が座っている椅子に座らせた。それから自分の物とニーナ、それからビアンカの分の珈琲の用意を始める。
「もうお湯入ってないかなぁ?」
 そう言うと沢本が茜に視線を向けた。
「いや、さっきお袋さんが変えて行った」
 茜の両親とも面識があるのか、ハウンドのボスは素っ気無く伝えた。茜も気にした様子もなく、頷きそれ以上追求しなかった。
「あぁ、そう。なら大丈夫だね。ボネットさん、頭痛はない? 吐き気は?」
 手元はインスタント珈琲に向けられていたが、さすがに意識の切り替えは早く、今は医者らしい質問を投げかけてきた。
「頭痛や吐き気はない。背中が少し痛い。まぁ、当然腕も脚も頭の切れた場所も痛いけどさ」
「まだ数時間だからね、そう簡単に痛みは引かないだろうけど」
 そう言いつつ、岳人は一番近くいたニーナに珈琲を出し、自分の分とビアンカの分を持って近付いてきた。診察台に二つのカップを置く。『飲んでいいよ』と茜が言ったので、遠慮なく手を伸ばし、珈琲を啜った。ビアンカの好みはもう覚えてくれたらしく、砂糖が一杯入っているようだ。甘くて苦いその味がゆっくりと広がり、胃に落ちて行く。

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