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その5:剣道と哲学(1) ―温故知新―

 祖父愛次郎は10代の頃、実家の田島家が開設した私塾「盈進義塾」で、旧佐倉藩の儒者倉田幽谷から四書五経を学んだ。そのため40代半ばまでは儒教的精神で世の中に処していたと思う。その一つの現れは、父の名前を見ると分かる。「丘」と書いて「たかし」とは当て字だと父は言った。「丘」とは孔子の名前なのだ。孔子の名前は「孔丘(こうきゅう)」という。それにしても、祖父は恐れもなく偉大な聖人の名前を付けたものだと感心する。そういう訳で、父をよく知る人たちは「キュウさん、キュウさん」と呼んだ。

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 今回はそういう話ではない。

 書斎を「松籟庵」とする切っ掛けとなった『千字文』の中に、「古書を繙いて、昔の人の残したよい事をあれこれ論じたりして……」と書いたのを覚えているだろうか。古の書について誰と論じているかというと、実は50年以上前からの親友熊本の川口茂君である。

 私は20代の頃から父の影響で『論語』や『孟子』に興味があり、熱心とは言えないが読むだけは読んでいた。その後、「愛次郎お爺さんは晩年『老子』を読んでいた」という母の一言で方向転換した。しかし、不思議だったのは息子に孔子の名前を付けるくらいなのに、何故『老子』なんだという疑問も残った。その理由はいずれ父の口から聞くことになる。

 『老子』を手にしてからというもの、私は目から鱗状態になって気持ちがスーッと楽になるのを感じた。以来40年以上の間、人生はあくせくすることはない、ゆったりと自然に生きればいいんだと思いながら過ごしてきた。50歳から始まった腰痛症の3年半も正直なところ心穏やかではなかったが、『老子』のお蔭で癒された。そしてそのような経験があったからこそ、今川口君と話が合うのだろうと思っている。

実は彼も60代の初めに、重度の腰痛症で苦しみ長期の入院生活も経験した。その間、私が手術をしないで腰痛症を治したことを知り、絶対に手術をしないで治すと心に決めて養生した。完治までは長くかかったが、今はそれで良かったと思ってくれている。 

彼は数年前から再度『論語』を読み返しながら、私は『老子』の立場から、このコロナ禍の世の中を語り合っている。ただし、煩わしい議論などしない。70代をどう生きるか、70代の剣道人生をどのように楽しくやって行こうか、という程度の他愛無い話である。

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 少しだけ『論語』の知識を増やしておこうと思って、文庫本をパラパラと捲っていたら赤線が引いてある箇所に遭遇した。その部分だけ記して置く。

 「父のあるうちはその人の志を観察し、父の死後はその人の行為を観察する。〔死んでから〕3年の間、父のやり方を改めないのは孝行だといえる」。

 父親が死んで3年間喪に服する?(3年間も?)、一切の公務を退いて平常とは違った衣食住で生活する?(仕事を辞めて収入はどうするんだ?)2000年前は3年間どうやって生活したのだろうかと思った。調べてみると、喪に服する期間は時代によって異なっていたし、ちゃんと決められた制度があったようで、すべての人がそうしたわけではないことが分かり安心した。

 来年、令和3年(2021)は父が亡くなって30年経つ。父が亡くなって3年どころか、30年間館員の皆さんと共に微力ながら盈進義塾興武館(以下「興武館」)を守ってきた。それは父だけではなく、祖父愛次郎の創設の志を曲げたくなかったからだ。

大分前のことになるが、日本舞踊の先生の言葉が心に残っている。「私の師匠はA師匠です。だから私が教えるすべてのことがA師匠の教えなのです。」

さかのぼって考えると、「興武館」には祖父の師である松田十五郎先生や山岡鉄舟先生の精神が、今でも息づいているのである。

 父は「古流は剣道の原点だ」と口癖のように言っていた。現に、鞍馬流の形を毎年5月の京都大会で岡田守弘先生と演武していたし、日本体育大学武道学科の学生に対して、小野派一刀流五行の形を4年次の授業で教えた。五行の形を父から教えられた学生は、教授在任期間8年の内わずか3年だけだ。他の先生たちは古流を教えていない。そういう意味では、私達は貴重な経験をしたといってよい。恐らく、剣道を専攻する学生には、打った・打たれただけではなく剣道の技術史には奥深いものがあることを教えておきたかったのだと思う。

 父の試みと同じように、コロナ禍の中館員の皆さんは各種の「形」や技の稽古を通して、知らないうちに「温故知新」を実践していたのだ。一人ひとりが、今までと違った「何か」を会得したのではないだろうか。そう期待している。

令和2年(2020)9月3日
於松籟庵

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