【メモ】塩親という概念を見直してみる

2021.11.07

最近、愛着障害についてやり取りしている友人と飲んだ時に、次のようなことを言われた。

「結局、塩親なんていないんじゃないか?塩も毒もホントは全部毒で、塩親って表現してしまっているのは、向き合うべき何かしらから目をそむけているだけなんじゃないか?」

なぜこのような考えに至ったかというと、その友人も僕のnoteを初めて読んだ頃は、自分の家庭も塩親家庭だと思ったが、その後さらに理解を深めていくと、やはりとんでもない毒親家庭だと気づいたから、らしい。

ふーむ…なるほど。
たしかに、僕のnoteにおいても、「毒」じゃないけど何か問題ありそう。
だから、とりあえず愛が無いという程度で「塩親」という言葉を使っていた。

そこで、その友人と話しつつ、塩親の性質について理解を深めてみた。


僕の家庭は共働きで、両親ともに小学校の教師だった。
祖父母も同居していたので鍵っ子ではなかったが、家で一人で遊んでいることも多かった。
夜7時くらいになると、父親が帰ってくる。
母親が帰ってくるのは8時、遅いときには9時くらいだった。
祖母が料理を作っていたが、なにぶん味覚が幼かったので口に合わないことも多かった。
僕が好んで食べていたのは母親が買ってくるスーパーの惣菜だ。
だから、僕にとっての「おふくろの味」はスーパーの惣菜の味だ。

こんなような話は、noteにも書いてあったかもしれない。
今回は、「触れ合う時間」に焦点を絞ってみたい。
夜8時や9時に帰ってくる母親は、惣菜を袋から出し終わると、すぐさま残った仕事を片付けるために別の部屋にいってしまう。
僕にとっての食卓は母親が不在の記憶が多い。
そして、食べ終わるころにNHKの8:45のニュース番組をよく見ていた。
(父親が見たいから見ていたが、もちろんクソツマランと思っていた)

低学年の頃は、9時を過ぎればおねむの時間だ。
敷布団を2枚敷いて、両親の間で僕は寝ていた。
父親とは一緒によく寝ていた。
しかし、いつも僕の右側は不在だった。

朝起きると、今度は早起きの左側が不在で、夜ふかしをする右側が寝ている。
僕は今でも寝起きでダラダラしちゃうのだが、小学生の頃もギリギリまで寝ていた。
朝食も祖母が作ったご飯と味噌汁、昨夜の残ったおかずを食べた。
祖母の作る味噌汁には、だしを取ったにぼしがそのまま入っていて、それは嫌だった。

母親は職業上、生徒よりも早く家を出なければならないのは当たり前だ。
(学校は同じではない)
だから、朝起きた後も母親と接する時間はほとんどない。

これが、僕の小学校時代の平日の母親との全てだ。

休日も学級だよりとかを作っていることが多く、
スーパーの買物についていくくらいしか接点がなかった。
あまりに接しないもんだから、何を話していいかもよくわからなかったように思う。

小学校よりも前、幼稚園とか幼いころの記憶はほとんどないが、
小学校入学を境に母親との接し方が激変したとも考えにくいので、
同じような環境だったのだろう。

まとめると。
僕の家庭の「塩親性」の根本には、
単純に接する「時間の量」がそもそも少なかった、という問題がある。

時間が少なくても、限られた時間で母親と心を通わせている家庭もあるかもしれないが、僕の家庭の場合はそういった気の利いた働きかけもなかった。

関係性を築くために必要な「時間の量」も、
良い働きかけ、すなわち「愛情の質」も、
僕の家庭では欠落していたのだ。

僕が考える(←勝手に考えるな)愛着障害は、
あくまでも乳児期の限られた時期の母親との関係性で決まるものだ。
だから、その後の家庭環境や親との関係性というものは、
愛着障害そのものではないが、人格形成に大きく影響する。
この部分が、医学としては取り扱われない、「アダルトチルドレン」と呼ばれる問題である。
家庭環境に問題がある時、そのような環境や関係性になってしまう親を指して「毒親」と呼ぶことが多いが(この言葉自体は1989年にSusan Forwardが作った言葉なので、現在の日本で何度目かの流行の波がきているのだろう)、
なんでもかんでも「毒」と表現するのは雑だと思う。

僕のnoteには愛情と感謝のサイクル、あるいはその逆である憎悪と消滅について書いているが、この観点から考えると問題がとてもわかりやすいと思う。

良くない親には、3タイプがいる。
1. 親が子どもを「憎悪」する = ネガティブな働きかけをする
これは虐待家庭やアルコール依存などが当てはまるだろう。
2. 親としては「愛情」= ポジティブな働きかけのつもりなのだが、
実際には「憎悪」 = ネガティブな働きかけになってしまっている

これが、厄介なタイプだ。
なぜなら「外部から見ると問題がわかりづらい」から。
過保護や過干渉はこのタイプに属するだろう。
当事者の子どもの目線に立つと、親の働きかけが愛情か憎悪かを簡単にジャッジできる。
それは、「感謝できるか」or「消えてしまえと思うか」
ありがたいな、と思える部分は愛情だし。
それはいらないとか、勘弁してくれと思える部分は憎悪になっている。
0・100でジャッジする必要もなくて、
「あの件はありがたいけど、この問題は正直やめてほしい」
「お金くれるのは40%ありがたいけど、60%迷惑だな」
みたいに、「あれはあれ、これはこれ」の是々非々(ぜぜひひ)でジャッジする力が大事だ。
(良いことは良い、悪いことは悪い、という是々非々の立場で物事を考える力を養うことは、愛着障害克服においてもとても重要です)

前者2タイプはいわゆる毒親と呼べるだろう。

そして、3つ目のタイプ。
それが今回主題の「塩親」だ。
愛情や憎悪の視点で考えれば、
愛情も憎悪もどちらも量的・質的に欠落している = 無関心
これが塩親家庭の本質だと思う。

僕の場合、愛着障害克服の過程でノート療法などのワークをしていた時には、見失っていた感情が呼び起こされたことで、一時的に親への憎悪が出てきた。
しかし、感情の高ぶりもほとぼりが冷めてしまえば、親への関心はほとんどなくなった。
ほんとに、どうでもいいのだ笑
どうでもいいからこそ、自分がどうしたいか?ということに意識を集中して考えられる。

親が更に年老いてくれば、否が応でも親のことを考えざるを得なくなるだろう。
親に対して無関心でいてもいい時間は、それほど多くはない。
だからこそ、時間に余裕があるうちに自分のことに集中したい。

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