【ジョジョnote】第6部考察 その① 第6部のテーマとストーン・フリー
1-0. アニメ「ストーン・オーシャン」完結を記念して
ついに、「ストーン・オーシャン」のアニメも完結しました。
よくぞ、第1部からここまで制作してくれた!
感謝の念に堪えません。
…とはいえ。
「ストーン・オーシャン」のクライマックの展開は、
歴代ジョジョの中でも屈指の難解さで有名だと思います。
そこで今回のジョジョnoteでは、
「ストーン・オーシャン」で荒木先生は何を描こうとしたのか?
僕なりの解釈を全3回で完結に書いてみます。
1-1. 2つの意味での「運命と石」の関係
第6部のサブタイトル「ストーン・オーシャン」
空条徐倫のスタンド「ストーン・フリー」。
まずは、ここの読み解きから入っていきたい。
文庫版40巻のあとがきによれば、
「石(ストーン)」は徐倫の意志(いし)、
「海(オーシャン)」は女性を象徴的に意味する。
また、「石でできた海」=牢獄のイメージを意味する。
↑これについては、荒木先生自身のあとがきなので、疑いようもない。
ここから考察を展開するのが楽しいわけです。
① 「終わりと始まり」の「ストーン・オーシャン」
まず、「石=死・停止」を意味する一方で、
「海=生命の誕生」を意味する(だから女性の象徴となる)。
この、「終わりと始まりがつながったタイトル」
という点が、既に第6部のクライマックを暗示しているかのようで興味深い。
② 石といったら「石仮面」=ジョースターとDIOの因縁
ここからは、段落のタイトルとした「運命と石」を考察する。
僕の考えとしては、第6部の「石(ストーン)」には、
「運命」という意味が込められている、のだと思う。
なぜかといえば…
ジョジョといえば、「石仮面」から始まり、
それがジョースターとディオ(DIO)との因縁を決定的に生み出したわけだ。
この点に関しては、異論がある人はいないと思うが、
だからといって運命と石というようにつなげて考えすぎるのはいかがなものか?
とも感じるだろう。
③ ローリング・ストーン(ズ)と運命
しかし、よく考えていただきたい。
第5部の最後に登場したのは、ブチャラティたちの運命を司るとされた
「ローリング・ストーン(ズ)」だ。
そして第6部に最初に登場するスタンドが徐倫の「ストーン・フリー」だ。
(スタンド名の登場はグーグー・ドールズが先だけど)
これは…たまたまこうなったのか?
これはあくまで僕の想像に過ぎないのだが、
「ストーン・フリー」というスタンド名は、どちらかといえば第5部的な名称だ。
というのも、
ブチャラティの「スティッキー・フィンガーズ」と、
スコリッピの「ローリング・ストーン(ズ)」は繋がりのある名前である。
(バンドThe Rolling Stonesの1972年のアルバムがSticky Fingers)
そして、「ストーン・フリー」の由来となったジミ・ヘンドリックスは、
フーゴのスタンド名である「パープル・ヘイズ」につながる。
つまり、「ストーン・フリー」という名称は、
他スタンドとの関係性や登場順的に第5部と強く関連しているので、
「ストーン・フリー」の「石」に、
「ローリング・ストーン(ズ)」と同じ「運命」という意味が含められている、
という考察はあまりはずれていないように僕は感じられる。
1-2. 第6部のテーマは
「運命からの解放=ストーン・フリー」
前述のとおり、文字通りに解釈すれば、
ストーンとは「石の海=牢獄」であり、
徐倫のスタンド「ストーン・フリー」は
「刑務所からの脱獄」
を想定された名前であるといえる。
(徐倫のセリフにもある。「あたしは…この「石の海」から自由になる…」)
しかし、ジョジョという作品において、「運命=石」を象徴することを考えると、
「運命からの解放=ストーン・フリー」とは考えられないだろうか?
そもそも、ジョジョという物語は当初から、
「過去からの因縁という恐怖」を描くために作られた作品だ。
つまり、
「100年前の祖先で何かしらあった因縁が、
何も知らない100年後の子孫に降りかかる恐怖」
という構想が第1部から第3部を貫くストーリーであり、
承太郎がDIOを倒すことは「運命(=迫りくる恐怖)の克服」なのだ。
しかし、ジョジョはそれ移行も第4部、第5部と続き、
続く第6部では再びDIOが直接的に絡んだストーリーとなる。
このようにジョジョを俯瞰的に見た時に、
荒木先生の運命観の変化というか、多様性が見て取れるのだが、
それは後ほどの項目に譲ろう。
ちなみに…第6部の同性間の愛情と思しき描写
1-3. ストーン・フリーというスタンド
①「糸」は継承=長期的な「時間」を表す
話を戻して。
僕の持論としては、
第3部から第6部はボスだけでなく主人公も「時間」にまつわるスタンド
であると考えている。
このような視点に立つと、徐倫もまた「時間」にまつわるスタンドなのでは?
と推測できる。
しかし、承太郎、仗助、ジョルノのスタンドが、
曲がりなりにも時間に絡められることと比べると、
徐倫の「糸」のスタンドは、現象的には時間と関係がないように見える。
ここで僕が提唱したいのは、
「糸」のスタンドは現象的(止める・戻す・始める)にではなく、
「長期的な継承」=時の「継続」を表しているのでは?
ということだ。
②「糸」が絡まると「柵(しがらみ)」になる
「ストーン・フリー」というスタンドには大きく2つの戦い方がある。
A. 「糸」としての性質を生かした、斬新な戦法
B. 「糸の集合体」としてのパワーを活かした戦法
しかし、この「糸の集合体」というところが曲者で…
「糸が集まって絡まってしまう」とき、
人はそれを「柵(しがらみ)」というのではないだろうか?
ここが、第6部に通底している(と思われる)、
「運命からの解放」につながっている、という視点から考えてみよう。
1-4. ストーン・フリーの2つの顔
①「柵(しがらみ)」の状態=ジョースターの因縁を象徴
「ストーン・フリー」が「糸の集合体」になると、
承太郎や仗助と同じように、パワー型のスタンドとなる。
「糸」=「長期的な継承」と考えれば、
「糸の集合体」=「長期的な継承=運命が絡まった、柵」
であり、ジョースターの因縁をそのまま表している、
と僕には感じられる。
(あくまで個人的感想です)
②「糸」の状態=徐倫の個性を発揮
一方で、「糸」の状態を活かした戦法は、
それまでのジョジョにはない独創的なアイデアが満ちていて、
徐倫の個性がいかんなく発揮されているように思われる。
このように、
「糸」の状態=個人としての徐倫
「糸の集合体」=ジョースターという家系の因縁を背負った徐倫
と対比して考えることができる…と思う。
1-5. ジョースター視点から見た
「運命からの解放」とは?
先程も触れたとおり、
第1部〜第3部という物語は、
ジョジョという作品が始まった当初から構想されていた軸に従っている。
この中では、ジョナサンとディオの関係によって生じた因縁、運命が、
孫の承太郎とDIOとの戦いによって決着がつく。
ホラー映画でいえば、
承太郎は晴れて過去からの運命=恐怖を克服したことになる。
しかし、作品は運命の克服をした段階では終わらず、
第4部、第5部と続き、
第6部で再びDIOとの因縁が蘇ってくるわけだ。
この時、作品としてとてつもない課題を背負っていることにお気づきだろうか?
第3部と同じように、過去から迫ってくる因縁、運命の根源である、
プッチ神父を倒すだけではもはや解決はできないのだ。
なぜなら、因縁の根源であるDIO自身を倒しても、
プッチ神父のようにDIOの因縁を背負った敵が新たに現れたわけで。
同じようにプッチ神父を倒したところで、
「次なるプッチ神父がくるかも…」という恐怖を克服したことにはならない。
また、作家としての長期的な因縁=柵(しがらみ)も生じてしまっている。
「どこまでも、第1部から始まった因縁を背負い続けた作品を
作らざるをえないのか?」
つまり、第6部には2つの意味での「運命の解放」というテーマがあるのだ。
A. 作品中のキャラクター視点で
DIOという過去からの因縁を乗り越えるためには、
単純に新たな敵を倒すという「運命の克服」ではない、
根本的な「運命からの解放」こそが必要である。
(解き放たれない限り、
DIOに関わる新たな敵に襲われる「懸念」を取り去ることはできない)
B. 作品を描く作家の視点で
過去からの因縁というテーマで描き始めたジョジョという作品であるがゆえに、
第1部から始まったストーリーに関わる形での作品を余儀なくされてしまう。
ジョジョという作品の因縁に終止符を打つ(当初の第3部で終わる構想)
のためにも、
今後新たな物語を描いていくためにも、
ジョースターの運命から荒木先生自身が解放される必要があったのでは?
(↑これこそ、僕自身の勝手な妄想です。おこがましいです、すみません)
以上の「運命からの解放」は、徐倫をはじめとしたジョースター側の視点だ。
続くその②、その③では、
本題であるプッチ神父の目指す「運命からの解放」を考察していく。
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