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【メモ】 価値観はどこからやってくるのか?

2021.02.05

先日のnoteの最後では、「価値観が大事なんだ」というようなことを書いた。

価値観とは、「何が良くて、何がいまいちかを」判断する基準のかたまりだ。


今、それを求めているということは、逆に言えばいままでは価値観がない状態で30年間も生きてきたのだろうか?


この一週間、そんなことを悶々と考えていたのだが、またいくつかヒントがあったり気づきがあったりしたので、それを備忘録としてメモしておこう。
(こうゆうのは、その時々では正解だと思っても、ちゃんと考えると間違えだったりもする。だけど、こうやって残しておくこと自体が重要で、思考の足跡をあとから辿れるようにしておくのだ。)

① 価値観は確かにそこにあった、そしてそれを壊した


僕。もっと広く言えば、このnoteをすがる気持ちで読んでいるような人々。

その人達にはそれぞれの価値観が多かれ少なかれあるはずだ。
(あった、という過去形かもしれない)

だけど、他人とか親に刷り込まれた(インストールされた)価値観によって人生をたどってきた結果、身体や心を壊して、こんな記事に行き着くわけだ。

そこからの脱出方法は僕のnoteにもまとめてあるし、そうでなくても様々な形で世の中に転がっている。

ただ、僕自身、2年前に愛着障害・AC克服noteを書いてるときにはあまり意識していなかったのだが、

親とか他人への依存を切り離し、他人からの評価、他人が大事にしているものに基づいて行動する「他人軸」から、自分自身の感情や欲求に基づいて行動する「自分軸」に移行する過程で、

思いっきり、「価値観を破壊している」のだ。

こうやって言われてみれば、とても、とても当たり前のことなんだけど。
「価値観」という視点で改めて自分で書き出してみると、ものすごくしっくりくる。

なるほど。いままでの自分に価値観が築かれていなかったわけではないのだ。
ただ、自分自身のために生きていくために、その価値観を自分の手で破壊したのだ。

最近僕は、
「いままで良いと思っていた物事は、一体何だったんだろう?」
「僕の中には『大事なもの』がないんじゃないか?」
と、結構思い詰めていた部分もあった。

しかし、この「価値観ロス」の状態は、
それが深刻であればあるほど、
逆に言えば「他人に刷り込まれた価値観」の破壊には成功しているともいえるのだ。


② これからの価値観はどこにあるのだろうか?


先日のnoteで、価値観を改めて築いていくには、「アーティスト・デート」が重要だ、ということを書いた。

それと関連する話として、青木理(おさむ)氏と宮台真司が出演していた2/2のJ-WAVEの番組にピンとくるものがあった。
(「やりたかったことを、やりなさい」の著者に言わせれば、これはシンクロニシティと言えるのかもしれないが、僕はそうゆう考え方はあまり好きではない。むしろ、「気づくための準備ができていた」という風に考えるようにしている)

宮台氏によれば、
アメリカでは「地球は実は、平らなんじゃないか?」というような風潮が一部で流行っているらしい。

馬鹿なんじゃないか?
と思われるだろう。
僕も、「トランプだのQアノンだの、お前らいい加減にしろ笑」
と言いたくなる。

でも、これはもちろん危険な風潮ではあるが、同時に「立ち止まって考えさせるものがある」とも思いませんか?

宮台氏は続ける。
地動説ではなく天動説を信じる、というだけでなく、例えば物理学の世界で、原子はそれよりも小さな単位であるクォークで構成されているとか、アポロが月に着陸したとか、そうゆうものは全部ウソ、と考える風潮のようなのだ。

なぜ、アメリカの一部の人々は、科学の世界で真実とされる物事を嘘と捉えてしまうのだろうか?

なぜなら、そういった科学の世界の真実は、
・身の回りの「リアル」とはかけ離れた世界の出来事だから
・顔も素性も知らない、「どこかの科学者」が言っていることだから

ラジオのテーマとしては、そこからアメリカの陰謀論とか、ユダヤや中国の話にシフトしていく…
(興味があるかたは、こちらのリンクから宮台部分を2/9まで聞けます)


この視点は、「価値観」をどう構築するか?を模索していた僕にとってとても示唆に富んでいた。

まず、先程の科学の陰謀的な部分でいえば、
生きた現実」と「死んだ知識
という表現ができると思う。

僕らの身の回りには、身体で実感する現実がたしかに存在する。
(哲学的思考にのめり込まない限りは…)
だけど、そこからかけ離れていって、目に見えない原子の話、たどり着けない地球の果て、真偽のわからない月面着陸など、「リアルとして感じられない出来事」は、生身で体験する現実と比較して、あってもなくても同じな「死んだ知識」として感じられてしまうのだろう。


さて、この視点で「価値観」を考えると、ものすごいヒントがある(と僕は思う)

いいモノってのは、頭で考える「死んだ知識」ではなくて、心や身体で感じる「生きた現実」なんだよ(たぶん)。

例えば。
「自分にとって」いい映画とは何か?
それは、莫大な制作費をかけたものでもなく、緻密なプロットで伏線を回収するようなものでもなく、ものすごい技術で作られた大作でもない。
こういった「頭が判断した情報」ではなく、
「うおお!この映画、なんかすごい!」
と思った映画が、「自分にとって」いい映画なのではないか?

心や身体で感じた感動が先にあって、そこに頭で説明を加えるのだ。
そう考えると、
「なるほど…映画はこうゆう構成なんだけど、ここに伏線があって、それが見事に回収されるから、大ヒットしてるんですね」
的なかんじで、頭で考えたものを確認するだけの作業のような気持ちで映画を見たら、生きた感動は味わえなさそうだ。


こう考えると、僕は過去の価値観は破壊したと書いたが、全てを破壊したわけではない。
音楽ならラルクが大好きだし、ラジオも大好き。歴史も大好き。
これらはどれも、頭で考えたものではなくて、「なんかすげぇ!」という感動を自分で掴み取っていたから価値観破壊戦争を生き残って今も息づいているのだろう。

避けなければいけないことは、
頭で考えて、それを確認するために心や身体に体験させる
愛着障害・ACで言えば、毒親が子供を引き連れ回すようなものだからね。
感じることを最優先して、あとからそれを頭に説明させる
アーティスト・デートをする上で、ここに少し気をつけてみよう。


③ 頭を使う「勉強」の中に価値観を見出すには?


音楽にしろ、映画にしろ、出かけるにしろ。
「身体で体験する」タイプのものは、アーティスト・デートが役立つだろう。

一方で、
本を読むとか、調べごとをするとか、どうしても「頭・思考」と切り離せないものはどうしたらいいんだろうか?

僕は、これに関して明確な答えは持っていない。
だけど、これから試そうと思うことを一応書いておく。


1. 現時点での「イイ本」=「続きが気になっちゃう本」としてみる

本を読むときって、論理的なものだったり、知識を求められるものだと、それだけで嫌になったりする。
ましてや、「この本は○○というところがいいんだよ」という評価の価値が、自分にとってピンとかなかったりすると、その本に対する印象は最悪だ。
(こういった他人の評価を理解するときにも、知識が要求される)

だから、いっそ開き直ってシンプルに考える。

続きが気になる本が、いまの自分にとってはいい本だ。

そうすると、
・最初から難しく書かれている本は、最初からつまづく = いまいち
・最初は読みやすくていいかと思ったけど、単調で飽きちゃったよ = いまいち
・最初はスルスルと入ったけど、途中から止まらなくなっちゃたな = イイ!

こんな具合に、本の内容どうこうは置いといて、
本というものが持つ「流れ」との相性を基準に評価するのがいいのかも。


2. 読む本の選び方 = 自分が良いと思う価値観を持つ人が選ぶ本にする

では、そもそも読む本はどう選ぶのか?
僕の場合だったら、学術系の論文の選び方でもある。

良くない選び方は、「売れてるから」とか「書店で平積みから」だろう。
この選び方だと、
この本は売れている=いい内容なのだろう、という基準になってしまいがちになりそう。

それよりは、人基準で選ぶのがいいと思う。
自分が良いと思う人が推薦するものを読んでみるのだ。
しかも、自分では選ばなさそうな本ならなお良し。
(自分で選びそうなら、紹介される必要もないし)。

そして、フラットな気持ちで読む。
難しかったり、合わないなぁと思ったらやめてもいい。
『続きが気になる』が現在のいい本の価値基準だから
買うのが高かったら、本屋で立ち読みしてもいいだろう。

で、もし読み終える本があったら、「何がよかったのか?」をよく考える。
・登場人物の心理描写がよかったな
・ストーリーの持って行き方がうまいな
・斬新な発想で研究を進めたな
など。

そしたら、可能であれば推薦した人の評価を見たり聞いたりしてみる。
順番を逆にしたらだめだよね
自分で考える前に、他人の評価を知ってしまうと、自分の価値観が汚染される。

自分の評価という核を先に作ることで、「価値観の原石」が生まれる。
そのあとに、推薦した人が考える評価を理解することで、価値観がより磨かれる。

こういった作業の繰り返しの中で、価値観が形成されていくのだろう。


いやー…
そうすると、価値観を成長させていくためには、
・良い価値観を持った指導者
・価値観について議論する場
が必要になるのかぁ…

こいつは長い旅になりそうだなぁ…


④ テンションマップ


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全然関係ない話。

これは、僕が勝手に考察した、「ジョジョの奇妙な冒険」に登場する14の言葉というものをもとに自分用に作った図だ。
(気になる人は、こちらの考察をどうぞ)

価値観について考える作業を続けていると、
もちろん幸せな気持ちになる状態も多いけれど、
何が良くて何がいまいちかわからなくなったときには、かなり心が苦しくなる。

だから、それぞれの心理状態になったときに意識することを、こうやって図として表しておくと、その時々で助けになる(と思った)。

こいつを、暫定的に「テンションマップ」と呼んでみる。

ポイントは、「らせん構造になっている」こと。
右上から見てみよう。

生の世界
端的に言えば、心が生きていると感じる状態。

・Happy(幸福)
テンションが高い状態。
何かがうまくいっていたり、こうゆうのがイイものだ!という感覚を持てている。
このときは、欲求=今現在やりたいことに従うとともに、可能であれば自分にとって新しい物事=フロンティアに意識を向けてみる。

・Passion(情熱と苦難)
ただ欲求に従うのではなく、もう少し行動の意義とかを考える状態。
「願わくば価値ある行動をしたいな!」なんて思っちゃう時。
どうしても父性的=成長しろ!的な性質があるので、
一生懸命仕事をしたり勉強したりする必要がある状態でもある。

・Pain(苦痛)
先程のPassion状態を続けていると、だんだんしんどくなってくる。
失敗とか、挫折したりしてうまくいかなくなってもこの状態に陥りやすい。
この状態になったら、心と身体に休息を与えたい。
なるべくなら、ここから直接HappyとかPassion状態に戻れると楽である。


もし、Painな状態から出られないときは、いっそのこと「死の世界」に突入します。

・Sad(悲嘆)
心が折れたり、迷いが生じたり、絶望してしまう状態。
こうなったら、かなり意識的に自分に対して母性的な行動を取るようにする。

・Dead(心の死)
自分の心が死んだものと捉えて、喪に服するかんじ。
「全力で悲しむこと」が何より重要(むしろSadですべきか?)。
同時に、「何が大切なのか」を見失った状態ともいえるので、死んでしまった心(うまくいかなかった心)が大切にしていた価値観はなんなのか?
どんな価値観が本当は大事なのか?ということを模索する。

SadとかDeadの状態は、少しネガティブではあるが心は強く動揺している。
それゆえに、イイものに触れたときに感動しやすくなっている、ともいえる。


そして、この「死の世界」から脱出する行動をして、「生の世界」に生まれ直す

・Rebirth(新たな価値観とともに生まれ直し)
大切なものを取り戻して生まれなおすかんじ。
あるいは、価値観を喪失した状態から、獲得し直す過程の段階ともいえる。
ここでは、ポジティブな意味で心を動かすもの、感動するものにとにかく触れるようにする。

イイものがつかめたら、再びHappyな状態に自然と戻っていける。


こんな具合に、前提的ではあるがそれぞれの状態での行動の指針を並べてみた。
興味がある人は、自分なりの言葉で書いたり、自分なりの行動指針を書いてもいいかもしれない(うまく機能するかは知りません笑)

この方法の大事なことは、「らせん構造」ということ。
ただ単純に「こうゆう心理状態になったら、こうしましょう」という表をつくるだけでは、「心の動きの流れ」とか「この先どうなるのか?」ということが掴みづらい。
また、「テンションの波」のような感じで、いい状態と悪い状態を
「〜〜〜」
みたいな波形で表しても、大事なことが掴みづらい。

らせんであることの本質的な重要性は「繰り返し」と「軸の形成」だと思っている。

このサイクルは、何度も何度も回るほどに、価値観を更新していくのだ。
回るほどによくなるのだから、仮に一時的に絶望的な気持ちになっても、
「回せばいいんだ」という楽な気持ちになれる。

さらに、らせんであるということは、2次元的ではなく3次元なものなわけで。
これを繰り返すことで、まさに螺旋階段の中心にあるような「軸」ができる。

僕は「自分軸」という言葉には、
・「自分の人生の始まりから終わりまでを貫く時間軸」
・「自分なりの判断基準となる評価軸」
・「他者との関係性や価値が渦巻く世界で、自分の支えとなる体軸」
という複数の意味が重複していると思っている。

愛着障害・AC克服で獲得できるのは、1つめの「時間軸」だろう。
そして、現在進めている「価値観の再構築」によって、2つめの「自分なりの評価軸」が獲得できる(と期待している)。
そしたら、3つめはいつになるんだ!

途方もない話だなぁ……

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